ハイライトで読む美しい日本人:齋藤孝:文芸春秋2005年7月刊
図書館からもらってきた本の中の一冊です…ハイライト中のハイライトと僕には思われました次の文章を引用させていただきます。金田一春彦「日本語」の中に書かれている…日本語が日本最大の財産…という言葉をあげて…以下は著者齋藤孝の解説文です
250 〜251ページ
物事は「自然」に決まるのがいいと言う日本人の感覚は、日本語の表現そのものに表れている。お茶は勝手に入るものではないが、自然に入ったかのように思いたい。自然に発生してきた状況こそが、何か好ましいものだという感覚がある。(※「お茶が入りました」という日本語独特の言い回しについて言及しています…いちまる:大村)
それは複数で何かを決めると時のやり方にも表れていて、「あなたはどうですか」とはっきり意見を聞く事はまれだ。「あ、そうですよね」「こういうことでしょうかね」とふんわりとした合意の空気を互いの間につくり出して、「ということでよろしく」と話はまとまる。
はっきりと言わない領域が多い分、言ったほう、聞いたほうが互いの解釈というものを入れていって、ゆるやかにひとつの共通理解をつくっていく。言うなれば、日本人の意思はどこから出てくるかというと、話している人同士の「間」あたりから生まれてくるのだ。
誰々が言ったというよりは、人と人との間で、考えは自然発生的に生まれてくる。物事や意思決定は人為的なものではなく、自然発生的なものとしてとらえたいという、日本人特有の価値観がここにはある。
これは悪いケースとして出ると、ぬるい会議で、「みんなの合意で決めたことですから」といった責任逃れになってしまうが、うまく機能した場合には、誰の意見に従ったというわけでもなく、その場にいた人の心が一つになって、物事は決まる。みんなが自分から納得して一団となり、強い推進力が生まれる。
このような日本語の特性は諸刃の剣だ。しかし、日本語のよさといった時に、私はその曖昧さに最大の魅力を感じている。もちろんクリアに伝える能力というのも、今現在の社会において求められている課題だ。とくにプレゼンテーションやディスカッションを的確に行う能力は、今後ビジネスをはじめ学校教育の場でも、いっそう必要とされていくことだろう。
しかし「お茶を入れました」といった何気ない一言にこめられた思いが自然に伝わることは、極めて高度な人間らしいコミニュケーションだ。その曖昧さゆえに、隠れた思いに互いの想像力を働かせてゆくのは、とても美しい人間的営みではないだろうか。引用以上。
(区内の図書館すべてに本の在庫品?処分:リサイクル、放出の仕組みがあるのかどうか分かりませんが…そういうものがあるかなぁとたまには、図書館に足を向けるのもまた一興ではありませんでしょうか、僕にとって図書館は身近なワンダーランドです)
兼好法師、好きだわ。先日読んだ本の中に兼好さん自身の言説ではなく聖徳太子その他の言葉として引用されていたのが、
原文
わが身のやんごとなからんにも、まして数ならざらんにも、子といふ物なくてありなん。
前中書王(さきのちゅうしょおう)・九条太政大臣(くじょうのだじょうだいじん)・花園左大臣(はなぞののさだいじん)、みな族(ぞう)絶えん事をねがひ給へり。染殿大臣(そめどののおとど)も、「子孫おはせぬぞよく侍る。末のおくれ給へるはわろき事なり」とぞ、世継の翁の物語にはいへる。聖徳太子の、御墓をかねて築(つ)かせ給ひける時も、「ここを切れ、かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり」と侍りけるとかや。
現代語訳
わが身が尊い高貴な人でも、まして物の数でもない低い身分の者でも、子というものはいないほうがいいようだ。
前中書王・兼明親王も、九条太政大臣・藤原信長も、みな子孫が絶えることを願いなされた。染殿大臣・藤原良房も、「子孫がいらっしゃらないのがよい。子孫が落ちぶれるのは、ひどい事だ」と、世継の翁の物語といわれる『大鏡』の中で言っている。
聖徳太子が、御墓を生前に作らせなさった時も、「ここを切れ。あそこを断て。子孫がいなくなればいいと思うのだ」とおっしゃったとかいうことだ。
カッコいいですよね。ふふ。世間からは袋叩きに遭いそうだけど。中学・高校で教える徒然草にこの個所がふくまれていないのは当然でもあり、分かっちゃないなと情けなくもある。