シカゴ学派の社会学:中野正大・宝月誠著:世界思想社2003年11月刊
(シカゴ学派と聞くと…経済学の著名人たちの名が浮かぶかもしれませんが(新自由主義…世の中変えちゃいましたものね)社会学の分野、ジャーナリスト出身の教授などによる学問のフィールドワークの重要性を追求し様々な著作をものした背景が知れて、楽しく読み進められました、ちょこまか読みでも結構読めるもんだなと思いました)
40ページ
サザーランドは「ホワイトカラー犯罪」のアメリカ社会での実態を示すために、合衆国最大の企業リストから70社を選び、これら企業の違反タイプを創業時からカウントしている。法律違反の種類は、取引制限、広告における虚偽表示、特許権・商標権及び著作権の侵害、全国労働関係法とその他の労働法の数個の判決によって定義される「不当労働行為」、リベート、金融詐欺と信託違反、戦時統制法違反、およびいくつかの雑犯罪(不純食品の販売や違法建築や流水汚染など)である。中略… 41ページ
こうしたサザランドの問題提起と仮説に対して、さまざまな反論がよせられる。「ホワイトカラー犯罪」の概念は刑法と民法の境界を無視するものであるとか、彼の「差異的接触論」では、犯罪を肯定する人がもともとどのようにしてそうした考えを有するようになったのかは明らかでない点や、さらに学習過程自体を犯罪行為と独立に測定できないとすればそれに基づいて行為が起こったことを説明したことにはならない、といった反論である。
ここでこれらの論争を詳しく紹介する必要はないだろう。重要な事はシカゴ学派の科学的方法である。サザーランドの研究スタイルに見られるように、既存の理論では処理できない例外的なケースを問題状況として受け止めて、それを解決するために新たな概念や理論を探求することである。それはまさにミードのプラグマティズムの科学的探求の実践である。しかも、この探求は終わりなき探求である。絶対的な真理を求めるのではなくて、問題状況の解決は「仮説」として提起され、次々と乗り越えられていくのである。こうした過程的・プロセス的な思考こそ、シカゴ学派に浸透していた科学的社会学のエートスである。
44ページ
初期シカゴ学派が活躍した時代を一言で表すならば、「変化と多様性の時代」となろう。科学的知識を応用した様々な技術革新による急速な経済的発展と、それにともなう外国からの大量の移民が、そうした特徴を形作る原動力であった。そして、その特徴を象徴するのが、「都市」である。都市は、人類が初めて経験する事態に直面していた。…中略…
急速な経済的発展… 1776年に独立したアメリカは、ヨーロッパに対し後進の農業国であった。アメリカが工業国として発展していく転換点は、1861年から65年の南北戦争といわれている。これ以後の50年間に、科学技術の革新による工業化を背景として、現代アメリカの原型が形成されていった。この時期の経済的発展はめざましく、1958年価格に換算した実質の国民総生産は、1869年から1878年の平均で231億ドルだったが、1920年には1400億ドルになる。この時代、石油のJ・D・ロックフェラー、鉄鋼のA・カーネギー、海運・鉄道のC・ヴァンダービルド、電気機器のT・A・エジソン、電話の A・G・ベル、ミシンのI・M・シンガーといった人々が、科学的知識を応用した新製品・新サービスを発明し、巨万の富を築いた。その一方で、商品・工場の経営者や、弁護士・医者などの専門職従事者、公務員、会社員など、ホワイトカラー層も増大した。1900年の一人当たりの国民総生産はアメリカ246ドルに対しイギリス243ドルである。アメリカは、世界の工場として君臨してきた大英帝国と肩を並べる経済大国となった。さらに1914年から18年の第一次世界大戦における戦争物資の輸出によって、アメリカは、債務国から債権国に転換し、世界経済に対する影響力を決定的にした。
46ページ
大量の移民…経済的発展を底辺で支えたのは、ヨーロッパからの移民である。新天地に夢を抱いてやってきた移民は、規格化と機械化によって熟練労働者が不要となった工場や建設現場に、安価な労働力を大量に供給した。
1820年に964万人だったアメリカの人口は、1920年には1億602万人と、100年で10倍になる。アメリカに渡った移民は、1840年代143万人、1850年代281万人、1860年代208万人、1870年代に274万人、1880年代525万人、1890年代369万人、1900年代369万人、1910年代635万人、1920年代430万人と、90年間に合計3685万人にのぼり、多民族国家としてのアメリカの姿が決定的になった。
(シカゴ大学のG・H・ミード、R・E・パークについて…)
54〜56ページ
G・H・ミードは1863年にアメリカ東部のマサチューセッツ州に生まれた。父親は牧師であり、オバーリン大学の前身である神学校の教授だった。母親も父親の死後にオバーリン大学(全米で最初に女性と民族的マイノリティの入学を許可した大学)の教授になり、マウント・ホリヨーク女子神学校の学長に就任している。ミードも当初は聖職を希望し、オバーリン大学を卒業した。しかし、彼はまもなく科学的にものごとを把握することに関心を持つようになった。…中略… 55ページ…ミードは生前に著作を一冊も書かなかった。しかし、社会心理学講義(彼の死後1934年に「精神・自我・社会」として編集出版)をはじめとして、彼の講義には社会学科の大学院生が多数出席していた。ミードは哲学科の教授だったが、シカゴ学派社会学の創始者の1人とみなされることが多い。これは彼が社会学科の大学院生に影響を与え、シカゴ学派社会学の誕生と形成に寄与したからだろう。
哲学者のミードにはパークやバージェスが標榜した「科学としての社会学」の意義を問い直す視点があった。ここではミードの理論がシカゴ学派社会学を「社会改良の科学」から「科学としての社会学」へ移行させる契機になりえたことを示したい。
(道徳的秩序の相対性と人々の経験の重視…)
パークによれば、シカゴ学派社会学は1909年のトーマスの研究Source Book for Social Originsから始まり、また、そのトマスの研究はデューイやミードがすでに哲学科で普及させていたプラグマティズムの倫理観、すなわち道徳的秩序が相対的であるという観点を重視したものだった。また、トマスは人々と直に知り合い、そこから得られる経験の主観的側面を重視した。この研究スタイルが大学院生に課せられ、多くのモノグラフが描かれた。
ミードは宗教的なものであれ社会主義的なものであれ絶対的観点を否定し、社会改良が道徳的に相対的な観点を取るべきだと主張した。また、社会改良のためには、人々と直接的な人間関係を持ち、直に現実を把握することが求められた。この姿勢がハル・ハウスやその他の実践活動でミードとトマスが共有していたものだろう。そして、道徳的秩序の相対性を主張し、また人々の経験を重視する姿勢が、シカゴ学派社会学の研究スタイルとして継承、発展していったのである。
56〜57ページ
クーリーの内観法から行動主義へ…ミードは1930年のAmerican Journal of Sociologyの論文で、シカゴ学派の社会学者が行動主義の観点から調査研究を行っていると評価した。その論文ではC・H・クーリーの社会的自我論が批判的に検討され、行動主義の観点が示された。クーリーの考えでは、人間は他者を鏡とし、その鏡に自分自身を照らし出すことができる。自我は他者の存在を前提とし、その他社の「鏡に映った自我」(looking -glass self)として社会的自我なのである。この内観法と称されるクーリーの発想は、自分に向けられた他者の認識を、個人が想像できることを前提にしている。
自己と他者が同じ母国語と同じ価値観をもつ場合は、相手の主観をうまく想像することができるかもしれない。これは家族や仲間集団のように面対面の組織と協同からなる第一集団(primary group)にあてはまる。しかし、コミュニティーは家族や仲間集団のように同質の人間からなっていない。シカゴの移民たちのように、母国語も価値観も違う人々が一緒に暮らしている。英語によるコミュニケーションが不可能だったり、文化的背景や価値観が違ったりする場合は、相互の理解は難しい。そこでミードは、言語以前の原初的コミニケーションに注目した。家族や仲間集団の相互作用においても、また多元的社会における異質な者同士の相互作用においても、同じ原初的コミュニケーションのメカニズムが働いている。ミードは多元的社会の問題を衝動や利害関心の衝突の問題とみなし、そこでの合意の基盤を原初的コミニケーションのメカニズムに見い出した。
原初的コミニケーションは人類に共通の生理学的行動に基づいている。人間の精神や自我はこの原初的コミニケーションの過程から生じた。ミードの行動主義(behaviorism)とは、生理学的な客観的行動から精神や自我にアプローチする方法のことである。
第4章 エスニシティー…移民と人種
126ページ
人種差別や民族の対立は、現代において解決の糸口を見いだせない問題である。多文化共生の理想を口にすることはたやすい。また、自分の生活・生存と深く関わった利害の対立や、多文化状況の中でこそもたらされる存在不安が、個人レベルの交流の努力で解決されるものでもないだろう。文化だけでなく、経済や政治などさまざまな要因が複雑にからみ合うなかで生じるエスニックな問題に真摯に取り組もうとする人にとって、初期シカゴ学派の現実的な挑戦の奇跡は、今でも新鮮かつ有益な領域として輝きを放っている。
シカゴ学派の調査研究、モノグラフ、著作の中から面白いと思われるものをピックアップしてみました
(※モノグラフ:ある1つの問題について書かれた研究論文)
153 〜154ページ
クレッシー「タクシー・ダンスホール」(1932)
第1部は、当時でも実態がよく知られていなかったタクシー・ダンスホールの紹介である。クレッシーは仮名のダンスホールを通して、その1日を描き出す。
そこは、赤と緑のクレープペーパーのリボンで花模様に飾られた天井の低い部屋である。…ホールは200人程の客がいて、…彼らはダンスフロアの端に立つか、壁にそって置かれた1列の椅子にだらしなく腰掛けて、踊っている人たちをくいいるように見つめている。…サクソフォンの最後の一吹きで演奏が終わる。…傍らで見ていた者は彼らの選んだ女性のところを目指して進んでいく。…女性は客からチケットを受け取るとすぐそれを2つに破り、チケット収集係にその半分を渡す。残りは無頓着に絹のストッキングの縁にしまいこむ…。原書からの引用
さらにの同書から引用(孫引き)
タクシー・ダンスホールは、そこを訪れる人にとって1つの世界だと著者はみる。そこには「独自のふるまいや話し方、考え方…がある) (P.31:原書ページ)。ダンサーにとってそこは、人に認められたいという気持ち、新しい経験や興奮への欲求を満たしてくれる場所である。ダンサーたちは搾取されているという気持ちはない。むしろ客にチヤホヤされ、満足を見いだすようになるという。一方客たちも、彼女たちの歓心を買い、あわよくば店外デートの約束を取り付けようとして、彼女たちを丁重に扱う。こうしてダンサーの見かけの立場は強くなっていく。
(この本を通してこの本の著者は…)
158 〜159ページ…マクロな分析と提言…
ダンサーと客の分析を終えた後、著者は、タクシー・ダンスホールのルーツと発展の系譜を探る。そこではタクシー・ダンスホールの自然史という仮説が示され、この施設の成り立ちが明らかにされる。タクシー・ダンスホールの起源の検討から、それが風俗取り締まりの中で生き延びるために、経営者たちによって「ダンス教習所」として社会に呈示され、やがて過当競争の中で人種別、踊りのタイプ別に専門化し、結果的にループ地帯や下宿屋街といった、深夜でも交通の便が良く、人の動きが多くて家賃が安いうえ、コミュニティー意識が弱い場所に集中して立地するようになっていくという過程が詳しく述べられる。組織が生き物のように状況を感じ取り、それに対応し、働きかけながら自らの呈示の仕方を見いだす。そして都市の中での居場所(立地場所)を見だしていく、という説明がなされる。…中略…
この問題の解決策は、タクシー・ダンスホールをただ非難するだけでは見いだすことはできない。…孤独で1人さびしく暮らしている者たちに慰めを提供し、刺激と興奮を意図的に与え、また疑似恋愛の機会があるという、それはまさに都市生活のある側面の縮図とみることができる。(P240)
こうしてクレッシーは、タクシー・ダンスホールを都市社会が生み出す矛盾が噴出する場所と捉え、問題解決には都市社会全体への分析と改良の試みが必要だ、と結ぶ。(この項:寺岡伸悟)
(この本のもととなったこのダンスホール調査が1925年にシカゴ青少年保護協会のケースワーカー兼特別調査官時代に数人の協力者たちと開始されている…とあります(159ページ)、100年近く前のフィールドワークなのですね、シカゴ大学の社会学の先駆者たちの先見の明に脱帽です)
もういっこ作品を紹介します、シカゴ学派が大きな関心を寄せたモノグラフとしての作品とあります
168 〜169ページ
ドノヴァン「セールスレディー」(1929)
「セールスレディー」ではデパートでの労働経験が詳細に綴られている。例えば、採用試験の内容。慣れない立ち仕事の辛さ。複雑な伝票処理との格闘。冷やかし客の上手なあしらい方。LLサイズの客へサイズがないことを伝える術。女性客つきそう男性たちの悲喜こもごも。深夜までかかる棚卸しの恐怖。トップセールスを誇る「カリスマ」店員について。キャリア組と平社員の待遇・給料・生活・考え方の違い。店員たちの知られざる私生活・恋愛・結婚などである。「セールスレディー」は、都会に出てきた1人の女性が、高級デパートの採用試験を受験し、新人研修を受け、さまざまな困難や喜びに直面しながら、一人前の店員となっていくキャリア分析が、ドノヴァン自身の成長とともに一遍の小説を読ませるように展開していく。私たちは、よく知っているデパートの表舞台に加え、普段目にすることのない楽屋裏の世界を知ることができるのである。彼女の作品が小説のように読者をひきつけるのは、アメリカ社会学会、ミッドランド作家協会、アメリカ女性作家連盟に所属していた彼女自身の作家としての、そして社会学者としてのアイデンティティーを反映しているためかもしれない。…中略…
20世紀初頭のアメリカは、ようやく女性解放に向かって動き出したところだった。彼女自身も女性に開かれた数少ない職業である教職につき、自立した女性として歩むことの意味を、身をもって経験していた。それゆえ彼女の描く女性たちは等身大で、働く女性たちへのまなざしも同情や偏見ではなく、率直で共感に満ちている。「セールスレディ」は「女性自身が女性を女性のために書く」ということの意味を、改めて考えさせてくれるのである。
(このコラム:水野英莉)
232 〜233ページ
エドワーズ「革命の自然史」(1927)…集合行動のマクロ理論から社会改革の人間科学へ(:吉田竜司)
革命とは何か。この言葉が想起させるイメージはどのようなものだろうか。あるひとは、歴史の時間に習った「フランス革命」や「ロシア革命」といった言葉を思い浮かべるかもしれないし、またあるひとは、われわれの暮らす「先進国」とは縁のない、どこかの「途上国」での動乱を思い浮かべるかもしれない。新聞をよくよく読む人なら、「通貨革命」や「IT革命」といった言葉が思い浮かぶかもしれない。
ただし、ことを政治的な意味に限れば、「革命」はわれわれの日々の暮らしにとって縁遠い存在であり、「理想」「暴力」「血」「混乱」「断絶」などという言葉やそれが想起させるイメージと多かれ少なかれセットになっているのではないだろうか。それは、なによりもまず急激かつ根本的な社会変革であり、「理想」という言葉で語られる幾分胡散臭い(傍点付き)観念によって方向づけられ、きわめてしばしば暴力を伴うもの、そしてそれゆえに、できるなら関わりたくないものとして捉えられているのではないだろうか。
しかし、本書「革命の自然史」( Edwards, L.P.,1927, The Natural History of Revolution, The University of Chicago press)の著者L・P・エドワーズは、そうしたわれわれの「革命イメージ」には歴史的根拠がないという。いやそれ以前に、われわれのうちどれだけが、革命の本質とはなんであり、それは一般的にどのようなプロセスを歩むのかについて真剣に考察したことがあるだろうか。今日ではほとんどその名を知られていない「シカゴ社会学者」エドワーズこそは、この問いに真正面から、そして「科学的」態度で取り組んだ初めての社会学者なのである。
(この本を読みたいと思い日本語訳を探しましたがありませんでした…といって英文のものを取り寄せて読むほどの気力がありません。でも238ページに…
本書でエドワーズが提示した「革命の自然史」という研究アイデアは、その後 C・プリントン( C・プリントン、1952、岡義武・篠原一訳「革命の解剖」岩波書店」、、
という本があるらしいのでそのうち取り寄せて読んでみようかと思いました。
最後に第10章からシカゴ学派のその後について少し引用しておきます… 274 〜275ページ…シカゴ学派の伝統の継承と伝達…
1950年代に何が起きていたのか?
シカゴ学派の知的系譜の継承…初期シカゴ学派から第二次シカゴ学派…をめぐる問題について再検討を行っておこう。1950年代は、パーソンズとマートンの登場後、統計的分析を多用した量的調査が主流となり、社会学における「支配」の衰退がはっきりしてきた時期とされてきた。この時期、ヒューズは、「人間と仕事」(Hughes 1958)にまとめられる職業研究、特に専門職研究を洗練させるとともに、別科新とともに医学教育の調査を進行させていた。それと並行して、フィールドワーク教育に携わりながら社会調査論を洗練、熟成させつつあった。ヒューズが、この時期以前の調査研究には見られない自制的な視線を社会学と社会調査に向けたのは1950年代であった。…中略…継承と伝達…ヒューズから第二シカゴ学派へ… 1990年代後半からのシカゴ学派再評価の流れは、ブルーマーとヒューズを並列的に取り上げる動きに結びついている。「理論化」と調査研究」と区分を行った上で「ミードとパークが果たしたと同じ役割を、ブルーマとヒューズが果たした」と言う評価が行われている(Fine Ed.1995:8)。
…中略…また、アメリカ社会学におけるジンメル受容に果たしたヒューズの役割も忘れるべきではない。パークがドイツ留学時代にジンメルから教えを受けた事は知られているが、ヒューズはそれを受け継ぎ、ジンメルの紹介に努めるとともに、彼の旧作の中にはジンメルの思考法が生かされている。さらに、ジンメルへの関心は、ゴフマンを代表として弟子たちの世代にも受け継がれたのである(徳田 2001)。シカゴ学派の伝統の再評価を「第二次シカゴ学派」への継承として出席警報辿る時、その時に同時に、ヒューズと言う、生前控えめに振る舞うことの多かった1人の社会学者の存在の大きさに気づかされることになる。
(…だからシカゴ学派って何?という声が聞こえそうなので…あ、僕自身も浅学なので、あ、そういうことね…と確認できました箇所です→)
287 〜288ページ
初期シカゴ学社会学がとらえたシカゴ的世界とは、西洋北欧=男大などからの大量の移民の流入によってもたらされた「共通に見られるような習慣がほとんどない」世界、「コスモポリタンな住民たちを何らかの共通の目的に結束させるような共通の味方も存在しない」世界、「そこに住むたいていの人々が非常に多様な階級と種類からなる」世界であった(情報1997に掲載のパークによる序文)
眼前の現実を、こうした多様性と異質性に満ちた領域と捉え、そうした領域にトマスは「社会解体」や「社会再組織化」といった概念で、またパークは「大家」や「どうか」といった概念でしまっていた。そうしたトマスやパークの持つ現実感覚や研究姿勢に賛同するブルーマンをまた、「現実の表れ方は事例ごとに様々であるから、我々が、固定化された客観的な特質様式を持つ表現方法にではなく、おおまかな指針に頼らなくててはならない事は明らかである」(ブルーマー1991: 194)とする考えのもとに、「定義的概念」の使用を日付、「慣習概念」の使用を支持する結論にたどり着いた事はむしろ当然のことだと言えるであろう。ブルーマーは、その主張「シンボリック相互作用論」(1009)の第1章の結論文において次のように述べておる。私の結論は…極めて短いものである。それは1つの単純な命令方で表現することができる。すなわち、経験的世界の特性を尊重し、そうした姿勢を反映するような方法論的な立場を確立せよ。シンボリック相互相互作用論が成し遂げようとしている事はまさにこのことであると私は思う」ブルーマ1991: 76)。
(大学ではどのように社会学というものを教えているのだろうか…教科書がありました→)
よくわかる社会学:宇都宮京子編:ミネルヴァ書房2006年10月初版
(受験勉強を終えていきなり知的な世界に入る、、大学生になった途端に知的になった友人たち、をふと思い出しました^_^、冗談はさておき…エスノグラフィーとは…と34 〜35ページに出ていました→)
エスノグラフィーとは何か…エスノグラフィー(民族誌)とは、そもそも民俗学あるいは文化人類学において、「文明」の側に属する調査者が「未開」の側に属するとされた「部族」や「民族」について詳しく記述した報告書のことを言いました。しかし、今日では、「文明」「未開」の二分法をこえて、一般的な理解が及んでいない(あるいは及んでいるように思われていても誤解されている)領域の全てを対象としてエスノグラフィーは書かれるようになりました…中略…(調査における非対称性問題)
エスノグラフィーを「われわれ」の社会に本格的に適用したのは、シカゴ学派の社会学者たちからといって良いでしょう。ただ、彼らもまた、支配階級であるWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の視点から自由ではなく、「文明」「未開」ならぬ「文明」「野蛮」図式を克服していたわけではありませんでした。エスノグラフィーのそうした歴史は、文化人類学や社会学においても、この方法をめぐる深刻な論争を惹起させずにはおきませんでした。調査者と被調査者の関係の非対称性問題(調査者と非調査者の関係は、情報を搾取する者と搾取される者、知識を占有する者と締め出される者、啓蒙する者と啓蒙される者といった関係性を帯びやすいものです。また、多くの場合、調査者がマジョリティーあるいは富裕層となり被調査者がマイノリティーあるいは貧困層と重なるということも指摘しておかなければなりません)はどのような調査においても議論されるべきものですが、エスノグラファーたちにおいては、それが「文明」「野蛮」図式の克服という調査と記述の様式をめぐる議論と重なって、いっそう徹底的になされたといえると思います。被調査者との出会いを通じての「私」の変容の記録としてまとめられたエスノグラフィーや、あるいは「私」と被調査者の関係性そのものにメスを入れる歴史的・政治経済的な背景をより重視した政治経済的なエスノグラフィーの登場は、そのような議論を背景としています。エスノグラフィーを書くということは、それをどう書くか(それはどう関係を引き受けるのかという事でもあります)と言う文学的(傍点付き)にさえ見える議論に関わることでもあります。
ともあれ、シカゴ学派以降、エスノグラフィーは、人々が社会・政治・経済によって翻弄されながら社会的世界を構築しつつ適応していく過程を把握・記述する方法として社会学においても定着しました。地域コミュニティや職業集団のみならずインターネット空間や消費生活における「族」の世界まで含め、エスノグラフィーの目録を作るとなれば大変な数がリストアップされることでしょう。
今日では、エスノグラフィーの「書き方」をめぐるテキストや、さまざまなエスノグラフィーを紹介するガイドブックも出版されています。
前者として佐藤郁哉「フィールドワーク〜書をもって街へ出よう〜」新曜社1992)を、後者として松田素ニ・川田牧人編「エスノグラフィー・ガイドブック〜現代の世界を複眼で見る」(嵯峨野書院、2002)をあげておきます(西沢晃彦)
(自分用のメモとして使わせていただきました、、、いまどき、こんなの読む暇人いるんだろうか…独り言、僕は奥手で、、社会学なんて最近ちょっと面白いなぁと思って興味を持っているんです、昔僕の初代の相棒は、、、僕が、あーでもないこーでもないと網羅的?にガンガン話していると…彼は一点突破でくるのです、、膨らませた風船にホンのひと刺し…背水の陣のような一点突破、もちろん僕はあえなく撃沈です、あはは
、、今頃になって僕の友人のやり方を真似ているわけです、、全く僕はオクテです、本来なら書を捨てて、街に出てフィールドワークと行きたいところですが…諸般の事情で、そうもならず今日も座敷牢に詰めております😅)
オー、これは超長い。新記録ではないかしらん。でもちゃんと目を通しましたよ。ちゃんと理解しているかどうかは疑問ですけど。
ミードって聞いたことあります。デュ―イの名前はもっとはっきり覚えている。最初お目にかかったのは高校の「政治・社会」の授業だったような。今はもうそういう科目はないかもしれません。そこで功利主義とかプラグマティズムという言葉に出くわしました。
当時の日本人はアメリカ式生活に憧れながらも、学術の世界となると欧州が基盤・模範だったようで、アメリカの哲学・思想は薄っぺらで中身に乏しいような印象を受けました。
私たちより半世代から1世代以上年上の人が教師だったし、親の世代もみんな大正から昭和初期なので、実学というのは何となく軽いものとされ、こういう年代のインテリ層は「真の学問」をえらく崇め祀って、学問といえば「神学・哲学・修辞学」を意味した中世欧州人の概念をそのまま踏襲したような感があった(ように思う)。
考えてみればほんの55年ほど前のことなので、その間に学問の世界も大きく変わったのですね。科学・技術や政治・経済の分野で世界をリードしてきたアメリカは、学術においても今や世界の先進国を席巻しているといえそうです。
私たちがまだ子供だった時期、第一次世界大戦で自信を失ったヨーロッパでシュペングラーというドイツ人が「西洋の没落」を書いて大きな話題になり、もはや世界の中心はアメリカに移ったとされたけれど、それまで他国の戦争で漁夫の利を得て金持ちになったアメリカがその倨傲から自らベトナムやアフガニスタンでの戦争に乗りだし散々な目にあった。
そして今度は「アメリカの世紀は終わった」みたいな見方が流行しました。でもアメリカの世紀は決して終わっていないと私は思う。それは確かに大きな問題が次々に出てきて、アメリカの政治家だけの決断ではどうしようもない事態が増えているけれど、この国の底力はちょっとやそっとでは揺るがない。
アメリカ人って一般に目の前の実際的なことにしか関心がないと言われますが、こちらでテレビの歴史番組などを見ていると古代から現代まで必ずアメリカ人の専門家が出てきて解説する。アメリカの学界って懐が深いのだなあと実感します。知性と精神界のこの豊かさは、やはり多文化の発酵作用に負うところが大きいのでしょう。
欧州でも移民が増えて人種・国籍の多様性が言われるけれど、これは「坩堝」というところには至っていません。どうも、それぞれが平行してあまり交わらずに暮らしているという印象です。ただ、それを批判して共存・混在を急がせるのもあまり宜しくないような気がします。
最近それを感じたのが、目下のウクライナ戦争でロシアに攻められて難民と化しつつあるウクライナ人に対する欧州国の動きです。
中東・アフリカからの難民が2015年以降殺到して欧州がアップアップになったとき、メルケルがEU各国にそれぞれ割り当て分を決めて「引き取ってほしい」と言ったことから大論争になりました。メルケルの意図は一見人道主義的に見えたけれど、国内の議会の承認を得ての決断ではなく、まして欧州議会など完全に無視、要するに人道的政治家の称賛を独り占めしようという彼女の意図は明らかでした。何よりかにより、余りにも非現実的。フランスなど「メルケルの決断は欧州の名誉を救った」なんておべんちゃらを言っておきながら、難民受け入れは「ちょっと無理でございます」と拒否。
そのとき面と向かってメルケルのドイツに歯向かったのが、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリーでした。これらの国々はカトリックまたはギリシア正教なので、イスラム教の文化とは相いれないと主張して、西側の欧州国からゴウゴウの非難を受けます。要するに排他的で連帯感がない奴らだ、というのが非難の理由でした。
欧州はまさに「多文化共生の理想を口にするのはたやすいが・・・」という現実に突き当たったわけです。
でもこの現実の裏にある事実、東欧やバルカン諸国が20世紀初めまでオスマントルコ帝国の桎梏のもとで喘いできた数百年も無視できないし、そもそもアッチラからジンギスカン、チムールなど中央アジアからの「蛮族」の侵入を中欧の玄関であるオ―ストリアの手前で人間の盾として防止したのは、これらの国だったという過去があります。
さて今回、もうすでにウクライナからの戦争難民がモルダブ(欧州での最貧国)に逃れ、そこからチェコやポーランドへの道を目指しているのですが、東欧の人々は彼らを受け入れると言っています。宗教・文化に多少の違いはあっても、同じスラブ系だし価値観に大きな差はないので分かり合えるというのです。もっとも彼らを結び付けている最大の要因は、ロシアという共通の敵ですが。
EUにしろ民主党バイデンのアメリカにしろ、現代の道徳律や正義感で政策決定しても、そう簡単に事態は改善しないということは明らかです。RevolutionでなくEvolutionを、ということでしょう。
Evolutionなどというまどろっこしいことはしていられない、という人々ももちろんいますが、そのための犠牲者は少なくありません。それでも東欧の人々は、ウクライナ人のためなら多少の犠牲は厭わないと言っている。これに対し、それならイスラム教徒も、と強要するのは無茶です。いずれ東欧の社会も変わるでしょうから(アメリカだって100年、200年の歳月を要した)、為政者も学者も国民に応じたまさにプラグマティックな措置を取るべきだと思います。
シカゴ学派の話からやや脱線しましたが、変化と多様性の時代のカギは、国民の教育と、変化の速度の調整ではないでしょうか。