櫂:宮尾登美子著:新潮文庫1996年11月刊(奥付にこの作品は上下として、1973年1974年に筑摩書房より刊行となってました)
アマゾンに発注した時この著者について…著者紹介欄に、、中国から引き上げてきて後、社会福祉協議会で働いていたとある…僕も30年ほど前、僕が鉄鋼販売に関する二次問屋団体→カッコ飛ばして下の→に続く
(緑町四丁目→岩伍の店のあった場所と同じ地名、あ、それだけのことです😌その他にもこの小説には僕のゆかりの名がいくつも出てきます、イチレツランパンハレツシテーのわが母のよく口にしていたウタがこの本に出てきたとき、、母のこと姉のこと父のこと、兄のこと、親戚の誰それのこと、祖父母のあれこれを思い出しました、小説を読みながら時間をさかのぼっていたのですね)
上の→から続く→…の機関紙の編集手伝いをしていたことを知っていたある人の紹介で、社協の「予感」という広報誌の発行のお手伝いをしたことがあり、あーこれも何かの縁なんだなぁと思いましたが、かすかな記憶をたどると…KBC会長クレマチスさんのサジェスチョン?かなにかで、この本とつながったことを思い出しました…。
(あ、社会福祉協議会の話で思い出した…ものはついで…これも、書いておこ、、、昔、用事で区役所の福祉課の若い職員Pさんと同行するタクシーの中での会話… タクシーに乗り込んで行き先を告げ…まもなく僕の顔を見ながら、、いちまるさん、まさか同じ葛飾区内に住んでいてこんな世界があるとは知りませんでした、、他の一般の人たちはこの事実を知らずにずっと暮らしてゆくんですね…と、静かに…でもひといきに話しだした。この事実とは…24時間介護が必要な方たち、当時、区内に数百人。またこんな話も思い出した…他区の介護施設の若いQさん、、まさかこんな時代に座敷牢みたいな所で暮らしている人がいるとは知りませんでした、、、淡々とした口調までお二人同じでした、状況は現在ほんの少しずつですが変わっているなとは思いますがサポート費用とスタッフ不足は相変わらずのようです、関係していた団体からの通信で知れます)
ところでイモヅルシキ、、にこだわらず…僕が読む本は全て芋づる式ということで理解していただいて…つまりこれから本の物色は手当たり次第ということになりますがイモヅルシキ、、のタイトルは残すことにいたします、ということで引き続き、よろしくお願いいたします。ではでは始めます…いつもの調子、、いや待てよそれでは話が長くなりすぎる、話の筋が問題なのではなく、この作品が、最近流行の?ファクト:事実がどんと次の時代に向けて提示されていることを取り上げるべき、、。
というわけで、ネタバラシみたいにしてあらすじをざっと申し上げます…そんな荒っぽいことをしても提示された「事実」はびくともするもんではありませんので、、、。
十五歳の喜和は賭場に出入りする血気盛んな十数歳上の岩伍に嫁ぐ。金があるときはある、ない時はない、の生活から抜け出すのはほんのきっかけから。岩伍の素行と気性を知る、陽暉楼の主に見込まれた岩伍はその後ろ盾で芸妓の紹介業を始める。のし上がって行く岩伍、商売柄、世間に対する引け目と自分自身のけじめから、妻として言外に求められている玄人としての振る舞いは頑として寄せ付けない喜和。わだかまりはそのままに時は流れて十数年。店はいろいろないきさつ、岩伍が見かねて連れてきた風来坊、子供とか、岩伍のおおざっぱな振る舞いをきっかけとして、勝手にいついちゃった人たちと共に賑やかでせわしない毎日、喜和は商売に対するわだかまりは拭いきれないながら居場所と差配に手ごたえを感じはじめていた。次男健太郎の結婚式を耳に入れつつ、長男の龍太郎は長患いの末、亡くなる。その後始まった、やっと落ち着いたかに見えた新しい住まいと夫婦の暮らしは2年と持たず、戦況が進むにつれ、外地へ送り込む女も需要に追いつかないありさま。その波にのり岩伍が、次男坊と身の回りの世話を焼く女と切り盛りする店は、外地へ送り込む女の手配で活況を呈する。ますます孤立していく喜和。そして、生きがい、とも夫婦のかすがい、とも喜和がすがる、頼みの綱、岩伍が娘義太夫に産ませた子、喜和とは離れないと誓う綾子を、寒い夜、方便を使い岩伍の元に送るシーンで終わる。
岩伍の綾子に対する不器用な接し方、男なりの愛情や商売上のしがらみに義理立てする男の事情、変化の真っ只中にいたいはやる気持ち、世に出る前の荒ぶる岩伍の支えともなった喜和だが、商売に乗り出した時、商売柄にこだわり、玄人にならない喜和に対する埋まらない心の隙間、焦り。それらを取り巻く世情、政情、歴史のうねり、その状況を生きる子供、大人、男、女、世間の「事実」をよくぞ書き残してくださったと思いました。
時代の同調圧力?感じるかな。うーん、やっぱいつもの調子に戻しますか、じゃ、気を取り直し、、こほん、、気になるところをチェックしつつ引用だ、、ぬるくなったコーヒー飲み、、、
行くぞ!
スペイン風邪が高知市一帯を襲ったときのことが語られています
65ページ
町内にぽつりぽつりと患者が出始めた話を聞いたら、一両日のうちにはもう全体に拡がり、普段陽気な表通りでさえ昼間から雨戸を閉じたままの家や、半開きの陰気な家が多くなっている。北風の中を、毎日のように鈴(りん)を鳴らしてやってきた熱い飴湯売りや、焼餅売りの団扇太鼓もぴったり姿を見せなくなったし、まして夜など、丸に加の字の夜泣き饂飩も按摩のピイも絶えてしまって、町が水底(みなそこ)に沈んだように暗く静まり返っているのであった。引用以上。(64ページに…この流行感冒(はやりかぜ)の悪辣さと来たら、今も知る人達が一つ話の種にしているほどで、罹った人は数知れず、死んだ人は高知市だけでも600人を超えたといわれている…と出ている)
裏長屋の窮状これに尽きるという惨状を見た喜和は、世間知らずを確認するかのように…
82ページ…娘の身売りは必ずしも岩伍の突拍子もないこじつけでなく、此処では罪悪などとは全く別の、世間に堂々と通用する親孝行という善行なのだと、喜和は岩伍の言葉を今更に思い返してみるのであった。
中略…
喜和は以前岩伍から話を聞いたとき、紹介人に無理強いされるのでなく、娘が自分からそれをいい出すなど、到底信じられない気がしたけれど、今、この裏長屋の情景を見れば、豊美が進んで陽暉楼に入る決心をつけた事実も容易く受け入れられるように思える。女の子は自分の手で稼いで親を助ける方法が他にあるわけでなし、豊美だって三条通りの刺繍工場で身を粉にして働いていて、一家はいつも半飢えの有様であった。
豊美はいま、陽暉楼で芸事の仕込みを受けながらも、固肥りして前よりはずっと息災げになっているという。それで豊美は仕合せとは一概にいい切れないけれど、少なくとも母親との共倒れから免れたのは確かであった。
これから先、喜和は安岡のお姐さんのように、「裏の連中には手合わぬが一番」とだけでは過ごしてゆけぬ事の難しさを考える。陽暉楼も客なら裏長屋の住人も富田にとっては大切な客であり、その客の暮し振りを恐れて逃げ帰る態(ざま)ではこの先紹介人の女房は勤まらぬ、とまでは、喜和にも確かに思えて来る。
107ページ
(最初、浮浪児同然の格好で家にやってきた菊はきかん気の強い女の子になっていたがある時…昔、喜和が捨て忘れていた菊の襤褸ぼろを見るなり、菊はそのボロをひったくり、、)
106ページ…中略…そのすぐ後、風呂場の方から突然、獣の吠えるような底力のある大声で菊が泣き出すのが聞こえて来た。
後を追って風呂場に行くと、ブリキの焚口で菊の着物は既に濛々と煙を上げており、その前に菊は踏ん張って立ち、肘を張り、目を掩いながら長い引息で泣いている。喜和は泣いている菊の珍しさに打たれ、暫くその場で見惚れながら、まことに不思議(おかしげ)な子よねえ、と思った。
(この後喜和は、すっかり自分の娘になりきったという菊への自分の思い込みに疑いを抱く…)
107ページ
喜和は、自分が菊の事なら胸の奥底まで判っていると考えていたのは大きな誤りではなかったか、と思った。風呂場の前で泣いている菊を見たとき、喜和の胸を走り透っていったあの不可解な思いは、年月喜和が積み重ねて来た努力を乗越し、菊が一瞬のうちに遠く遥かな世界へ離れ去ってしまった感じであった。
初めて見せた泣き顔を最後に、菊はもう喜和の掌のなかに、一かけらも残ってはいないように思えた。これが自分と菊との本当の姿だったのだと喜和は気付き、長い間持ち続けて来た母親としての自惚と共に、菊も絹も、娘という呪縛から解いてあげよ、という決心が即座についたようであった。
中略… 108ページ
九つと十の歳まで、家というものの無かったニ人が望んでいる本当の仕合せというのは、母親と娘という苟且(かりそめ)の小難しい約束事ではなく、もっと自由で息のし易い場所にあったのではなかったろうか。それは奉公人という地位でもよく女中(おなごし)と呼ばれても構わない一種のしぶとさのようなものであり、喜和は以前裏長屋へ踏み込んだ日のように、今度もまたニ人の前にはこのまま引き下がるのが一番いい方法なのだと諦めるのであった。
111ページ
中略…
岩伍も喜和も、舟でいえば、漕ぎ抜けて来たあとの櫂を、今はじっとを休めている時期なのだと思われる。舟に委しい誰ぞの言葉のように、櫂は三年櫓(ろ)は三月、操りかたをやっと覚えた櫂も、浮かしおけば流される、というなら、漕ぎ休めている今の時期こそ、岩伍にも喜和にも大切な月日なのであった。
(第一部はこうして終わる)
櫂の操りに、最適解は?時の流れや障害物をどうやり過ごすか、この後、櫂、、が、、岩伍の甲斐性、綾子や喜和の生きがいにも通じて、よい小説のタイトルだなと思いました。
岩伍が娘義太夫を囲っている話から喜和は矢も盾もたまらずその舞台を観、その姿、その芸の見事さに打ちのめされる、いたたまれず店に帰らず里に帰ってきた喜和の前に現れた岩伍の使いだと言う60がらみの大貞楼の女楼主、大貞が喜和の実家の古道具屋の店内に顔を出す、、
、
209〜210ページ…皿小鉢から小道具、古着の類まで雑多に拡げてある店の三和土に、大貞は細い握り込みの蛇の目を逆手に持ったまま佇んでいる。
このひとの前身は京都の中書島とも大阪の松島ともいい、一娼妓の身で今日まで叩き上げて来た重みは、生半な素人衆など足許にも寄れない押し出しの立派さがあった。
六十搦み(がらみ)と思える半白の髪を、ほんの1筋もこぼさず厳しくちんまりと結い、さすがにもう白粉気(おしろいけ)はないものの、長く抜いた衣紋は鶯色の総絞りの半襟に黒繻子、その上に羽織っている雨合羽は藤鼠の山繭という、隙のない装束に身を固めている。
「あ、これはまあ、お喜和はん。よかった、よかった。あんたが此処に無事でいてくれはって」
大貞は喜和を見るなり、思わず涙の滲んでくるような柔らかい調子で呼び掛け、片手で蛇目の水をさっと一振りすると手早く雨合羽を脱いで手畳みにし、
「ちょっとお邪魔しまっせ」
と膝を斜にして上がり框へ腰を下ろした。引用以上。
この後、大貞の仲介に応じ店に戻った喜和。大貞が妾宅から岩伍を呼び戻し話し合いが始まるが、喜和は、娘義太夫が岩伍の子を妊娠中と知り、あまつさえ、その子を引き取って育てるのが、この世界のやり方だと言われ拒否、したたかに岩伍に殴られる…その気を失う喜和を冷ややかに見つめる大貞。引用以上。
第3章は
大晦日にもかかわらずクロダイ釣りに出かける岩伍…大貞に妾と別れさせられ行き場のない気持ちとともに大晦日にもかかわらずクロダイ釣りに出かける、見送る喜和
244ページ
中略…
師走の沖の潮風は骨身を刺し徹すように吹きすさび、舟の上の暖を取る物といえばほん掌ほどの手焙りだけ、しかも昼弁当でさえ自分の手で打毀してしまっての殆ど無茶ともいえる荒々しい沖釣りなのであった。きっと岩伍、積のる思いを吹っ切る為に釣糸も垂れず、今日一日をただ力の限り櫓を漕ぎ廻して戻るに違いない思うと、亀を連れて行かなかった理由も改めて喜和に呑み込めて来る。喜和は、焦立たしければ焦立たしいなりに辛ければ辛いなりに、身を紛らす術を持つ岩伍を、自分よりはまだしも、と思うのであった。胸の内がどんなにぼろぼろに裂け千切れていようと、寝込んでいるばかりでは家の内も廻らず正月も来ぬ主婦の身にとって、人目を憚からず泣ける場所といっては終い風呂の短いいっときしかありようがない。以下略(これ以後の展開も、それぞれの細かな日常の繰り返しとすれ違い、あるいはまた非日常の展開が日常となり…気がつけば手にした櫂も失っていた。
与えられた条件の中でしたたかに生きる長い長い女にとって下積みの時間は過ぎて…これからのきたるべき時代は女が直接条件設定そのものに関わってくる時代だと思いました。これを読んだ昨日は本当に長い1日になりました。
血のつながりからも少し解放される時代の予感が少しある。ここは時間をかけて良いところであると思う。ゆっくりとゆっくりとそういう時代を醸成していけばいいと思っています。櫂は次の時代を用意してくれていると思いました。それは偉大な作家の条件ではないでしょうか。最初にこの本を読みだしたときちょっとしたシーンの描写がありありと生き生きと目に浮かんできて…すぐに作品に信頼がおけました。自分の身の回りの風景をきちんととらえることができる人は人間もそのように捉えてゆく…最初の僕の思い通り、というと偉そうですが…今この時期にこの本に出会えてよかったです。
女が身売りする、貧困の中で自分と息子が食べていくため娘を売り飛ばす、こういう話は時代劇小説を読んでいるとよく出てくるのですが、それの現代版がしっかりあるではないか、と感じることがあります。
まさか風俗産業に「娘を買ってくれ」とは言わないけれど、独身を通した娘、離婚して実家に戻った娘、病弱で稼ぎがあまりなかった娘が、後に老いた父母の面倒を看続けたケースは周囲にも山盛り。或る知人が「出戻り」になった時、母親は恥だの面汚しだのと罵って、後に自分の体が効かなくなったとき娘に全面的に世話させ、言った台詞が「ようあんたが独りでいてくれたと思うわ」。(息子は寄り付きもしない。)
かくいう私もそうなるところでした。私が50歳をだいぶ過ぎて結婚することになったとき「何で今さら。それも外国の人と」と母が立腹した理由は、晩年を私にみさせようという目論見が外れたから。
どう転んでも、女は男が作った目的の連鎖の中に手段として組み込まれている、その手段にならない女は生きている資格がない。それが世間の暗黙の常識でした。そして他に能力もないため男に従属してその手段になることに甘んじた不甲斐無い女たちが、自分たちと異なる同性に投げかけた侮蔑の眼差しは、今思い出しても腸が煮えくり返る。
売られなくても犠牲とならざるを得なかったケースは、わりと最近までかなりありました。特に田舎には。土佐といえば自由民権運動の発祥の地と言われますけど、実際にはこの県の男たちはものすごく遅れている、そしてだらしない。幸い、昨今はそういう男に見切りをつけて一人でやり直す女が増えました。離婚率、シングルマザーの数は、全国でもトップレベルです。そして、健康年齢に関しては、女性は上から19位でそこそこですが、男性は42位。それだけひとさまのお世話になる年数が長いということで、これも自己責任です。(岩悟のような男が今もいるんだ。あ、その筋の方も結構多いんですよ。)
一方で、大正末から昭和初めに生まれた女性たちの多くは、戦後民主主義が導入されても新憲法が制定されてもその旧弊を脱することはできず、娘に対しては江戸時代に岡場所や貪欲な商家で働かせた母親とさして変わるところはなかったように見えます。冷淡な女も多かったけど、とにかく同性の苦境に無関心な女がいっぱいいた。そういう年齢の女性たちが次第に消えつつあることは幸いですが。