< 日本という方法 >
どういう意味?とまず問いたくなるこの本の名前の由来からいきましょうか
(日本と言う方法:松岡正剛著: NHKブックス: 2006年刊)
あ、最初に断っておきますが(最初に断っておかないと著者の言葉が判じ物みたいに聞こえてしまう恐れがあるので…)僕がこの本を読んで気がついた事は、松岡はこの本の書き方そのものを彼が言うところの「日本と言う方法」に託したのだと思いました。
日本は主題の国と言うよりも方法の国だろうと言うことです→情報を受け取ったらそれに編集を加えて一般化する、考えることや書くことも私は編集行為だと見ています、、、(わかったようなわからないような13ページ〜20ページ)
「リバース・モードとしてのうつろい」(この言葉の説明も今は省略します…松岡の論の進め方がこんな風だからです、こんな風とはつまり断定を避けた言い方、どんどんどんどん後回しにしてそれでも断定を避けるという投げ遣り?)について、、、例えば
連歌における趣向の連鎖は、、、おもかげを求めた「うつろい」の文芸だと言うのです(136ページ:連想ゲームみたいなもの?)
さて唐突ですが連歌の話から国家の話へ話題が移ります(碁における布石のように松岡の話はあちこち飛びます)。日本は明治維新で徳川幕府が崩壊するまで何世紀にも及ぶ先進国中国から学び続け徳川幕府がその治世に応用した学問をあげています。それは四書五経→大学、中庸、論語、孟子(四書) 易経、書経、詩経、礼記、春秋(五経)
ちなみに二宮金次郎はこのうちの「大学」をたきぎを背負いながら読んでいたと言うわけです: 165ページ。
ちょっと長いですが165ページから引きます、、
(中国において)…「大学)と言うテキストは古代からあったわけではなく、「礼記」の一部に過ぎなかったものを朱子が自立させて「大学」としたものです。本来の大学の意味は「学の大なるもの」という意味で、漢の鄭玄(じょうげん)は大学を「博学をもって政となす」「博大聖人の学」と説明しています。大いなる学によって国がつくれるのだと説いていた。(引用ここまで)
「大学」は…「己を修めて人を治める」ための国を愛する者のための必須の一冊なのです、と言うことらしいです。ここに儒学のエッセンスが全て凝縮していると朱子は考えたのです、と言うわけで徳川幕府はこれを国策として利用した。
これに異をとなえたのはこのシリーズ001で取り上げた本居宣長です。漢意:からごころ(中国的思考法)に名を借りた(音(おん)だけ借りた)万葉仮名の羅列の中で、宣長が初めて古代日本人の頭の中にあった意向と意表というものを想定して、ついに「古事記」を日本語で再生した、それは知的想像力で解いたのではありません、本来から将来に向かって日本語がそのようになろうとしたしくみを解明して、再生したのです。これは「おもかげの国」の正体に迫る、聞きしにまさる方法だとは言えないでしょうか、と松岡は熱く語ります:211ページ
237ページから始まる第11章:「矛盾と葛藤を編集する」では日本の建築様式まで引き合いに出して「日本という方法」を語ります。
てりむくり、、唐門の屋根照り(反り)と起くり(むくり)対立や矛盾をあえてつなげ合うことで強度を出すという編集、、これを日本独自の方法と言う人もいる、、、と誘導しつつ:241ページ、二項対立ではなく二項同体(消極主義)=ミニマル・ポシブル→これが日本と言う方法、なのではないかと展開していきます。
松岡正剛は読者に何とかそれ(日本という方法)を伝えるために、、、
水を感じたいからこそ枯山水から水を抜いたのです…と言う禅問答のような解答を導いています:245ページ
「日本と言う方法」を探るために、さらに、かの西田(西田幾多郎)哲学に肉薄していきます: 246ページ
絶対矛盾的自己同一、、、思索の型に正と負や凸と凹があるとして、それまで正で進んできた思索を、途中で正に向けた負によって、あるいは凸に応じた凹によって、あっというまに対応させてしまうのです。一枚のドアをこちらから向こうへ開けていって、あるところで向こうからノブを逆向きにして入ってくる自分と出会うと言うことです(こんな説明でわかる人は日本人?)と、松岡正剛は言ってのけます。続けて…そこに「相互作用する関係」そのものが概念を食べてしまったり、新たな概念を創発させているという見方をとっている(書き間違いありません…念のため、
概念を食べて、、、概念を創発、、、?!
次に話が飛んで日本の童謡を取り上げています(頑張ってついてきてください…僕だって頑張ってる!)日本の童謡の異常さ、シャボン玉は壊れて消える、生まれてすぐに壊れて消える、赤い靴を履いていた女の子は異人さんに連れ去られる!
「はぐれること」や「取り返しのつかないこと」などわざわざ童謡に書くものはいないでしょう、そんなことまでして子供たちに伝えたかったこととは? : 301ページ
とくに核心と空虚を残すと言う方法です: 310ページ
肝心なことをあえて言わない空虚を作ることによって多くの人心を身投げさせる(ここ僕なり言葉を編集、言い換えしました)僕はここまできかされて思いました…結局僕ら日本人の環境は、全て捨てても、つまり、何もなくても全てある、海の幸山の幸が豊富な国民の思想とでも言いたくなってしまいます。厳しい環境の砂漠の民とも、奴隷を家畜として使って成り上がった国(日本もでかい事は言えないけれど)とも、違う思想。捨てて捨てて捨てていくと残るものは何か…大きな空き地だ、何でも揃っている空き地…そこからスタートせよとでも言う意味なのかしら? らっきょうの皮をむいてむいて芯に何もないことを確認しろとでも言うのでしょうか?そうでは無いのでしょう(ここ松岡正剛の口真似)じゃぁどうしろと言うのか?(このパラグラフ、いちまる節?です♪)
※この本、保管してありますので読みたい方はお申し付け下さい)
半分ぐらいしかわからなかったこの本ですが読んでよかったです。と言うのは一昨日図書館から借りてきたナオミ・クラインの「地球が燃えている」(2020年11月に発行された日本語訳)…気候崩壊から人類を救う、グリーン・ニューディールの提言、、、
を読んだ上で…(おそらくは具体的な提言でしょうから)日本人のウケ狙いで「日本と言う方法」で「再編集」して、非力ながらも僕なりに「翻訳」してみる気になっています。そうか!彼、松岡正剛がこの本で言いたかった事は…方法を決めずにことに当たると言う事だったのかもしれない。少なくともこの方法が間違いでない事は、、というか、これから試してみるこの方法も(まだ、どういう方法になるのか分かりません)「日本と言う方法」の一つの方法だと思いたい。こう決心すると読むときに気合が入ります。
彼がこの本の最初の方で投げかけた言葉…
日本は一途で多様な国
この言葉。最後のほうのページでもう一回出てきた…彼はいろんなヒントを与えただけで何一つ結論を言っていない。だからといって行動を起こせないわけではない。何もないところから発想しろと言っているわけでもない。彼が口角泡を飛ばさんばかりに熱弁していたこと…それはたぶん、、、日本は一途で多様な国、と言う認識、もう一度原点に立ち返って、ここから始めようぜと言っているような気がした。シルクロードの末端、ミトコンドリアDNA の情報から日本人のルーツを探るとそれは驚くほどの多民族国家(パラサイト日本人論:竹内久美子:文芸春秋:49ページ、ミトコンドリアは語る、参照)、同一ではない、エントロピーマックスのカオス、または雲散霧消の中から立ち上がれ!(読書の消化不良でちょっと頭がやられました、結局日本人て何? ぷっ☺笑ってごまかす)
消化不良の中途半端な気持ちをキープしつつ次回はシリーズ003で取り上げたナオミ・クラインの「地球が燃えている」をまだ身に付いていない「日本という方法」で探っていきます、あはは、照れ隠し😅
おはようございます。あ、そうだったんですか、長谷川三千子なる名前がびすこさんからあげられて、僕はその名前も初めて聞いた位で、さて、と思っていたところへ良いタイミングでコメントをいただきました、本の木、はここからちょっと枝分かれしますけど、めんどくさい人物と伺ってはなおさら、このシリーズで近々取り上げたいと思います…長谷川さん。僕が読んだ本の中には確か長谷川さんの名前は全く出てこなかったような気がします。西尾幹ニの「国民の歴史」分厚い本でしたね、だいぶ前に岡島書店の100円均一の棚で買って読んだ記憶があります。内容は西尾幹ニの名前とともにすっかり忘れていました。いつも貴重なヒントをいただきありがとうございます!もうこのシリーズがどこへ着地するなんていう事はどうでもよくなりました、おかげさまで結構楽しくなってきました♪