<時代またぎ>
本がこんなに身近であった事はない。本とこんなふうに付き合ったこともなかった。これは贅沢、なんて贅沢、生まれて初めて。まして、これから1ヵ月ほどかけて作っていく「芋づる式本の木」で自分の一面をちょっとあぶり出して一覧してみるなんて、これがドキドキしないでいられるか💓😜
ところで…唐突ですが「時代またぎ」はこの世に文字ができた時から始まっていたのだと思う。本を通じて再現されるバーチャルリアリティーは昔からあった。芭蕉は西行と時代を超えて語り合っていたと思う。今だって芭蕉や西行と語り合える人がいると思う。小林秀雄が「昔を今のように生きる」と言う意味のことを何かの本(「考えるヒント」?)の中で語っていたように思う。おそらくはそうやって小林自身が時代を超えて宣長と付き合って出来た本居宣長を取り上げた著書もある。さらには、その本居宣長が紫式部の源氏物語…つまりは紫式部への、これも750年を隔てた恋慕であった、と思える節も後で話す本の中に散見される(私見)
(そうか、こんなふうにこれから本を読んでいきながら思いつくままに語っていけばこのシリーズ少しは続けられるかもしれないな、どんなふうにまとまるかまとまらないかそれも面白い、よしこれでいこう!)
それでと、、、「時代またぎ」と言う言葉、この言葉は今さっき僕が作った言葉です。昨日クレマチスさんがまたグッドアイディアを開陳してくれた。決定的瞬間をとらえた動画をホームページに掲載すること…多分シリーズになる(スマートフォンが重いので、つ、つまりさっさと再生してくれないのでPC環境に持っていって後でパソコンで見ることにする)。このアクション、挑発?によって僕の今回のシリーズのめどが立った。動画は決定的瞬間をとらえる。それに対抗したい。そもそも本について語ることが圧倒的な動画の迫力に対する「対抗」になるのかどうか…動画が敵だなんて、多分まったくの勘違いだと思う。でも何か知らないけど「動画「に対抗したい。一世風靡している動画だけど、そんなものが言語に対抗できるわけがないことを早めに宣言しておきたい。ばかじゃないのと言われようと時代錯誤のドンキホーテになりたい、あはは。あ、そうだ…何か意味ありげなことを言っておこう。
昨日読んでいた宣長に関する本の中で…宣長の著作「源氏物語玉の小櫛(おぐし)」の位置づけや光源氏の年齢などの基礎研究、注釈等宣長の研究成果の多くは定説となりました、とあり、、、(以下引用)
…しかし肝心の「物のあわれを知る」という革新的な考えには、ついていけなかった人が多かったようです。いつも傍にいた養子・大平(おおひら)もその1人です。
この説が抵抗なく受け取られるようになるのは、近代、いや太平洋戦争後を待たなければならなかったのです。
…創元社:日本人のこころの言葉:吉田悦之著: 2015年刊、85ページ。
と、ありました。今なら、ませた中学生なら、もしかしたら理解できそうな「物のあわれ」が当時の人には理解されず、理解されるのにニ百年!も必要だったなんて…そんな事実(今風の言葉でファクト)を、本を読む、たったそれだけの行為で知ることができる。念のために断っておきますが…僕がわかったのは…物のあわれが当時の人には理解されず…という所だけです、宣長の原文を読んだわけでも、著者、吉田悦之の類推が正しいことの裏を取った(確認、証拠付け)わけでもありません、ただの鵜呑み(自発的、消極的洗脳)です、まして、「物のあわれ」を全て理解したとも、とてもじゃないけど思えません、、でも、それでも、、
本を読むって本当に素敵なことですね
(以後、かつての映画評論家の淀川長治を真似してこのセリフで毎回終わるようにしよう、陳腐な文章には陳腐な決めゼリフ…バランスの問題だ、ぷっ)
追伸 :
賤しけど 雷 木霊 狐 虎 竜の類も 神の片端
朝宵に 物くうごとに 豊受の神の恵みを 思え世の人
と宣長の歌を引き、八百万の神に祈り、実った稲穂たったで三束でご飯一膳分!にもなる生産性の高さで命を支える稲に対し宣長は日々感謝していたと著者は言っています、、と、さりげなく我田引水…そんな稲は植物、と言うわけで次回は植物を一生探求し続けた牧野富太郎の本、取り上げる予定です、この本はみやこさんがこの間LINEトークで紹介してくださったものです♪
いやぁーそれはまったくの功徳だと思います、きっと観音様に出会えたと思ったと思います、五合! 白米と梅干しがあれば基本的にはご馳走だと僕もいつも思っています。主食はありがたいですね。主食に対する思い入れは、もしかしたら世界共通かも^_^
宣長の歌と、「実った稲穂たった三束でごはん一杯分」の話で、鮮烈に蘇った記憶があります。子供の頃、8,9歳だったと思いますが、よくおヘンドさんが村の家を廻っていました(遍路の装束ですが、物乞いです。私の地方ではおヘンドさんと呼んでいて、これはお遍路の訛りかと思っていましたが、宮本常一の本で「遍土の僧」の意味だと知りました)。見ていると母が一握りの米を与えています。あんなにちょっぴりではどうにもならない、と思いつつ、子供だから手出しできません。何軒訪ねたらご飯が炊けるだけのお米が集まるのだろう、といつも気の毒に思っていました。多分10軒でようやく一合になるかならないか、だったでしょう。
あるとき誰も家にいないときにおヘンドさんが来たので、米蔵に入って一升枡に半分くらい米をすくって、おヘンドさんの袋に入れてあげました。母が帰宅して留守中誰か来たかと訊くのでおヘンドさんの話をして、枡に半分くらいのお米をあげた、というと、もう物凄い雷が落ちてきました。「でも、とても喜んだよ」と抗弁したら、「そりゃ喜ぶでしょうよ、あんた、ほんとうにどうしようもないアホね」と怒鳴られてしまった。子供だから、5合といってもどれだけのご飯になるのか分からなかったこともあります。
こんな子供時代の経験があるので、私はこちらでも米を炊きますがお茶碗に半分くらい残っても捨てられません。冷凍してまた食べます。一つには海外では日本の米(日本産ではないジャポニカ米)が貴重ということもありますが、これを2回か3回とって置けば、一食分になって、大げさですが、命を繋ぐことができる、という思いがあるからです。