辞海という三省堂の厚い辞書の中程のページの1枚が切れている。1ページの4分の1位が切れてる。小学校5年生位の時だったと思う。兄が古本で神田から買ってきた辞書だ。「漆黒」かなんかの意味を調べているときそのページの一部が切れてなくなっていたのを発見した。調べたい意味がわからない。 小学校高学年の僕は小学校の図書室に同じ辞書があるのを見つけ兄からもらった金ペンの万年筆(兄はその万年筆を、おじいちゃんからもらった)で放課後、破れたその部分のページを細かく写しとって辞書に貼り付けた。僕の直し初めかも知れない。辞書はいまだに使っている。写真。 ものはついで。兄が買ってきてくれた図鑑の写真を写生したもの(写真は明日載せます)小学生4年生頃だと思う。いつも通信簿に投げやり、中途半端と先生が書いてくれてた頃。2年前僕が死に損なった時に全て捨てたと思ってたら母のもの整理してる時に出てきた。よく見ると背景と岩の部分が確かに投げやり。 コピーなんか多分まだなかった時代のぼくの「直し始め」の1ページだ。もし直していなかったら… 60年間以上手元に置いておかなかったと思う。直す、って、そういうことか。
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コメント今読むだけで目がくらみそうです、現存している本の中にきっといろいろなものが挟まっているのでしょうね^_^
クレマチスさん、これプルーストですね。スワン家の方へ。
昨年の晩秋まで日本にいた間、もうすっかり片づけたはずの蔵の二階に段ボール箱を見つけ、開けると昔私が読んだ講談社の少年少女文学全集が入っていました(数巻、欠けていましたが)。母親は文学などに関心はなく、自分及び自分の実家と関係ないものは何でも捨てる人でしたので、驚きました。
妹の死で、その孫たち(私の従孫・大姪ということになります)と親しく交わるようになり、そうだ、今5歳と3歳の彼女たちに、あと6,7年したらこれらの本を読ませられると思いました。そこでふと考えたこと。私が読んだのは1956、7年ごろでしたから、それから70年ほど経て大姪が読むとして、これはすごい。父母の世代の書物では、ちょっと無理でした。
父親が多分10代で読んだと思われる文学全集があって(1925年頃?〕、「罪と罰」など読もうとしても、地名は全部漢字、旧仮名遣い。それから30数年後、父の子供には大変な苦労で早々と諦めました。国語の変化が特に戦後激しかったからですね。
少年少女文学全集の中で、ドイツ編、ケストナーの「点子ちゃんとアントン」などは、54歳でドイツ語を勉強し始めて後に、グリム童話と共にいち早く読んだ本でした。ハイディ(アルプスの少女)も。
実は今、シュトルムの「白馬の騎手」を読んでいます。これは先日、ドイツ史に関していろいろ読んだあとのおさらいにと増田四郎の「ヨーロッパとは何か」を読み直して、そこに言及されていた小説です。(この岩波新書の本も1968年の刊、父親の書き込みがあるので彼が買ったものらしい。)
ドイツの北の果て、シュトルムの故郷を舞台にした若き「堤防監督官」の物語で、1888年に書かれたものです。言葉が古い上に、今いる南ドイツにはない語彙(堤防とか干潟とか無いし、鳥や動物も違う)が多くて、苦労はしますが、でも読めます。日本語を習っている外国人が、1888年頃に書かれた日本語を読めるかどうか。
別冊付録ってのはありましたよね、結構な分量で、、、1冊借りて3冊ただ読みしている風景がありありと出てきてしまいました…。訂正箇所の書き込み…なるほどなぁーです、兄の友人で自費出版書などの印刷製本などに関わった方が例の福島さんの本を見て誤植を発見してくれました、職業病だなと思いました^_^今回のクレマチスさんのコメントのひとつひとつにうなずいてしまいます。ゲラ刷り?のある全国組合員の名簿の誤植を発見するために、上司が読み上げるのを僕は懸命で追いかけると言う飽き飽きする仕事を思い出しました^_^グワっと一塊りの思い出が…おかげさまで湧いてきました、ありがとうございました😊
奇跡的に残った貴重な記録ですね。図書館で辞書の欠落部分を見つけて書き写すとは、古文書学者の所業です。私は社会人になってから似たようなことを職業とすることになりました。職業上の秘密ですが、もう時効だと思うので、久しぶりに取り出した刊行後の翻訳書の書入れ本をお目にかけます。誤植のない本や誤訳のない翻訳はありません。刊行後も発見されたそれらの箇所に書入れをして、重版の時の訂正に備えるのも編集者の重要な仕事でした。初刷りの後、重版のたびに訂正が入り、この本は5刷りくらいまでは、毎回テキストが変わっています。横道にそれましたが、大村さんは小学生で同じようなことをされていたとは驚きです。
これに引きかえ、小学校高学年の時、私の愛読書は小学〇年生の別冊付録(小型の漫画本、毎月ほかの付録と一緒に数冊入っていた)で、手塚治虫や赤塚不二夫や横山隆一や山根赤鬼を読み、合間に貸本屋でさいとうたかおや白土三平や前谷惟光を立ち読み(座り読み、1冊借りて3冊座り込んでタダ読み)、ほかの時間は金魚を飼ったり、ひよこを育てたり、一人で遊ぶことが多かったわりには、まとまったものを読んだ記憶がありません。たまに「西郷隆盛」や「決戦川中島」などの講談本を読む程度。中学生に上がるときに、小学6年生の受け皿として「少年サンデー」が創刊されて、自然にこれも定期購読ということになりました。このころ、強く記憶に残っているのは、平凡社が「国民百科事典」を発刊して大キャンペーンを始め、出入りの本屋がおいていったパンフレットを見て、これを母にねだったら、PTAの読書サークルに参加していた母は賛成してくれましたが、当時の我が家の家計から見て小さな買い物ではなかったので、給料袋を母に預けて普段は一切口出しをしなかったサラリーマンの父が、反対をして気まずくなったことでした。ただ結果的に、国民百科事典で森羅万象の知識の全体像を見つけだす手段を手に入れたことが現在の私を形成する大きな転機になったことはまちがいないです。