連続ラジオ小説とかいうのを母が内職しながら聴いていた。僕は多分小学生。今思うと…円地文子?原作で淡谷のり子の半生を取り上げた放送だったと思う。僕がそばでたまたま聞いたときの回は、若いときの淡谷のり子がアルバイトとして画家(和田浩治という俳優のお父さん?)のモデルになってなんちゃらかんちゃら…と言う(後からつぎ合わせるとそんな感じ)事実に基づくラジオ放送だったように思います。
なんでこんなことを思い出したかと言うと…今日の動詞、愛す、を考えていたら、そう言えば、、とつながり、、ブルース歌手として成功した淡谷のり子、ラジオ小説ときて、彼女が何かの機会に言った言葉を思い出したのです。曰く…私、愛されるのより愛すのが好き。
その言葉を聞いた時が、高校生だったか、もう少し大人になっていたか忘れた。とにかくそれを聞いたとき…気取りやがって、無理すんない…と思ってたと思う。
今は…納得の一言です。強引な一方的恋心の押し付け、横恋慕とか、ストーカー行為とは一線を画す、もうちょっと大人っぽい博愛、またはもうちょっと子供っぽい無垢、どんな愛のかたち?
博愛、では寂しい。無垢、では純粋すぎて味気ない、無償の愛と言っては抽象が過ぎる。もう少し熱を帯びている。アガペー(神の愛)と言ってはまるであさって(見当違い)の方に行っちゃうし第一それでは僕みたいな無神論者の立場がない、あはは。どうあがいても僕には似合いませんね、こーゆー話、でもしたい。
嗜好癖とかでは無いですよ…人を愛す。自分勝手で一方的なところがいい。愛して嫌いになることもあるのか? 多分ないと思う。もっと安定してる、どーんと構えている。そういう愛し方が好きだなぁ。自然でもあるような気がする。介在物付属物がセットになってない、ここがポイントだ。だって愛するって…そこに介在物があってはならないとても個人的で率直な表現であり、行為であって欲しいと思うからだ(セックスの事では無いですよ)
なんか、とても人間的でかっこいい気がする。好き、とどう違うのかをあえて言えば…決意の差だ。といって、刺し違える覚悟と言ったら一方的でなくなるし、押し付けがましい…ダメだこりゃ…みんなが小説のテーマにしたがるわけだ。言葉にしにくい。
言葉にすると嘘っぽくなる。最悪伝わらなくても良いのだ、多分。何も求めない自己完結的愛情表現とでも言っときますわ。そもそも愛するって頭で考えることじゃないんだよ、結論なんか出さなくても良しと言うことにしておきます。そこいら中にありふれて、溢れる愛を言葉で表現しようと思うとこんなに難しいんだなぁ。
(昔僕だけが寝ていて(多分小学校へ上がる前だから当然寝ている時間帯)夜ちょっと遅く他の家族でワンタンを食べに行く。帰ってきて寝てる子起こしてワンタンを食べさせる。子供の立場で考えたら押し付けもいいところだ。考え足らず。でも僕は今それを考えるとき涙が出そうになる。なぜだ。
どんなに拙くても、ばかばかしく見えようとも、それが表現したいことであり、表現せずにはいられなかった行為であっただろうからだ、気持ち丸ごと、矛盾丸ごと、世界まるごと抱きしめたくなるような、人間だったら誰でも秘めていると思いたい感情表白、愛す(表白の上手い下手はあるにしろ。たとえば、人は誰だってそういう愛に抱かれたことがある、伝われば、いちどで充分な、そんな愛。そんな愛を受けた人は、愛を知った人であり、愛を知る(言葉によって知ることではなく)ことにおいて皆平等であるとすると、平等っていう意味はそれを指していってるのかなぁ、もしかして)。
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最終更新: 2021年2月22日
動詞マニア 愛す 012
動詞マニア 愛す 012
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僕は博愛主義者と言われてました 八方美人では傷つくのでその婉曲語法だったなと気がついたのはずっと後でした
ここ数日書き込みができなかったので、ちょっとご無沙汰してしまいました。
愛することは「独占」になりがちですね。私の家庭が典型。両親は子どもを大切にしてくれましたが、貧乏な甥・姪たちには親切ではなかった。まともな父でさえ、わが子第一、いや、わが子のみ、というところがあって、私はむかっ腹を立ててまともに抗議したことがあります。
カトリックでは聖職者に結婚が禁じられているでしょう。これは妻子を持つと愛情がそちらに向いて信徒が忘れられがちになるから、と聞きました。しかし博愛というのには時に無理があるのも事実です。
僕の相棒も好きでした、ものまねも上手だったです^_^
その方の一芸拝見したかったですね、淡谷のり子は僕のも好きでした、あ、数学科、僕の直前の、といっても40年近く前ですけど、その上司が数学科でして、凸凹コンビ面白かったです。あまりの性格の違いに不一致を感じなかったです^_^
宗教にかかわらず平等を当てはめるために苦肉の策でこのような設定をしてみました、^_^
淡谷のり子は洋楽好きの亡母が熱烈なファンでした。
ラジオやテレビで淡谷のり子が出演していると欠かさず視聴していました。歌謡曲が大嫌いというのも彼女の主張と軌を一にしていて、その影響を受けて育った私も、演歌や流行歌の良さ、面白さを理解したのは、社会人になってからでした。
淡谷のり子については、もう一つ。大学紛争で大荒れの70年代初頭にゼミの教授のお目こぼしで大学の数学科を卒業して某出版社に就職したら、同じ編集部のフランス文学関係を一手に担当していたT大出身の名編集者が淡谷のり子の親戚筋の方で、顔も声もよく似ていました。サービス精神旺盛な方で忘年会で女装して淡谷のり子の物まねしてくださったこともありました。
愛する、という言葉は平等とは相いれない言葉のように私には思われます。ユダヤ教やキリスト教のような一神教の文化を背景としたことばで、神に向かって帰依するときのように、あなたを絶対的に受け入れる、極端に言えば、あなた以外はどうでもいい、だから異端を、異民族を、他者を排除する、差別する。平等というのはそれに対するリアクションとしての概念ではないかというのが、私の独断と偏見です。
多神教の風土にどっぷりつかって育まれてきた日本人は、だから昔から、お前を愛している、というようなセリフは近代西洋文化に触れるまでは使わなかったはずです。LOVEを愛すると訳したのはだれか忘れましたが、愛の旧字を分解していとしいいとしいというこころ、というのが精いっぱいの理解でした。
差別は区別とどう違うのか。差別はむずかしいテーマです。