< 働く > はた(他の人)を楽にする、、ハタラク、と、山本有三の「路傍の石」の主人公、確か名前は吾一、彼は年とった先輩からさとされる。われはひとり、との吾一の名前の意味も教わる。 路傍の石、は中学校1年生の時、同級生にプレゼントされた本でした。のちに、社会学科専攻の彼、下町に似つかわしくない難しい名前の喫茶店を始めて同級生から失笑買ってたな、口さがない下町の人たちにも困ったものだ、店をたたんだと聞けば、今度は人の失敗喜んでる、ばーか。どっか引っ越しちゃった彼元気にしているだろうか。 怠け者はダメだね…母の言葉だ。そりゃそうだ。勤労青年は皆頑張って吾一と同じように働いていた。兄もそうだ。兄の友達もそうだ。姉もそうだ。父もそうだった。みんな食べていくために働いた。え?今もそうじゃん。切実度が違う?よってたかって働かないと食べていけなかった。夫婦生活を4畳半から始めなきゃならなかった先輩の話をよく聞く。貧乏。夜逃げ。戦争がなくて希望だけあった、名も無く貧しく美しく、、、なんて映画もあった、そんな映画が地続きで普通に受け入れられていた時代から抜け出しつつある時代があった。 (僕はと言えば、時代を逆回しして、そんな時代に投げ込まれたようなもの。文無し、手に職なし(事務職と言う手があったが宮仕えは選択肢になし)ペンキ屋の見習いから始まって、やってく見通しがついて有限会社設立して…後は働くだけ。 数年やって会社をたたんだ後、再び、ぼくが今度は、零細事業主として仲間を募り、少し軌道に乗り始めた頃、フローリングの床材1坪分、僕だって疲れていたけど仲間のためにふーふーいいながら現場に運んでいたっけ。扉の前に積んでおくと、、、どうせなら部屋に入って中に積んでおいて欲しかった…と言われ疲れが倍加する。これはまあ良い、金儲けのためだ) 思い起こせば、いまはもうない、エスコ貿易と言う三田の札の辻の角にあった外資系ゲーム会社を辞めて(そこにいた当時の中山社長は後のセガの会長におさまったやり手)仲間と組んで始めた仕事の失敗で文無しになって(最大投資者の友人は継続)…ペンキ屋になった時は、文無しゆえに開き直って、がむしゃらに働くしかなかった。 これが結構面白かった。円形脱毛症になり若い人に冷やかされながら(いちまるさん、坊主にしちゃえば目立ちませんよ…)気が済むまで歩き通した。仲間ってすごい、すごい負担なんだけど…いなきゃ働かなかった。いたから働いたんだと思う。万歩計を携え、毎日18キロ訪問して仕事の注文を御用聞きのように取って歩いた。土下座寸前の事までしたことがある。仲間がいたからね、張り合いにもなったし気持ちも入った。体も丈夫になった。もともと痩せてる奴が丈夫になると…ジャッキー・チェンみたい…と言われるようになる。年上の友人からは…日本人は昔みんないちまるさんみたいな体をしていたと言われた。なるほどね、そう言われて悪い気はしなかった。つくづく単純な男です、ここ高倉健風、ぶっ。 数年前、日本語ボランティアでインドの人とちょっと話したときに…日本の奇跡的戦後復興がアジアの希望であったし、今もそうであることを知った。子もちの若い父親でもある彼が言う(朝鮮動乱を始め棚ぼた式の特需が機動力となった経済成長はこの際無視) 「日本の」勤労精神、、、今も日本を支え続けている、僕はそう思う。日本の美学であり精神的バックボーン。変わった人たちだ、働きマニア?大好きだ。 (働いていていりゃいいって もんじゃない…反発反論必至の話題についてはまた別稿で) (おととい、下の部屋にミシン数台が運び込まれた模様。昨日午前中、押し入れの中の上段の有象無象を2階にあげた。下段の道具類を2階に上げるとそれこそ足の踏み場がなくなるので、あれはあのままにしておいてもらおう。 タイプライタ数台買い込んで自作の点滅式特大タイプ練習機を立て掛けて、立石英文タイプライター教室を開いたのが… 25歳前後(アルバイトの先生まで雇って…、ところが、僕の気が変わって、、、開始直前中止。しばらくして机椅子タイプライターとも全て処分しておしまい、なにそれ?!それを思い出して、天井を仰いだ。今度の主催者はぼくよりずっとちゃんとした人で使命感もありパワーもありそうだ、お若いのに、苦労人とお見受けしました、尊敬してしまいます。 草葉の陰から?応援しよう、火の粉が飛んでこない遠くのほうから応援するのが僕の主義、我ながらなんて嫌みなやつだろう) 明日で動詞10個目か。やれやれ、楽しいけど、やや、くるしい、忘れたくても思いだせ!
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今遅くまで起きてたのでご返事できます^_^宮本常一、懐かしい、へーそんな話があるんですね。 明日日曜下の仲間たちで壁に絵を描くんだそうです…どこをいじってもいいからと言ったら早速アクションを起こしました、若いときの僕みたいです…早いもんがち。漏れ伝わってきたところによれば…びすこさんが語ってくださったお仲間と言うことになります。日本にいらっしゃるエチオピアの方に手に職をつけさせる…と言うようなことらしいです。J I C Aジャイカにいた方らしいです。らしい、、、と言う言い方は僕の都合で距離を取る必要があるもんですから、歯切れが悪くてすいません。糊口を凌げるといいんですが、、、。
世の中には本当にいろんな仕事があるものですね。タイプライターの学校かあ。今数台のミシンを運びこんで何を始めるのでしょう。昔の職場の女性で、バングラデシュのエリート(東大で造船の勉強してた留学生)と結婚して彼の地に渡ったのち、世の中の変化で造船学では収入が得られなくなった配偶者を助けながら、NGOかなんかの援助で工業用のジューキミシンを何台も買ってもらって、現地の女性たちに縫製を教えていた人がいます。日本の田舎でやはり縫い物で身過ぎをしている人がいて、今時衣服を縫ってもらう人がいるのかなあ、と思ったら、サイズの調整や縫い直しで結構注文があるとかで忙しそうでした。
いろんな仕事といえば、少し前に宮本常一の「生きていく民俗:生業の推移」を読みました。この人の作品としては何と言っても「忘れられた日本人」が有名ですが、著者は西日本の出身なので描かれている農漁村の風習などは私にも思い当るものが種々あります。それで「生きていく民俗」の中の<職業の起り>の章で紹介している商売が実に面白い。
『京の西の常盤というところから「おちゃないか」と呼びながら歩く小商人がでていた。「おちゃ」というのは「落ちは」という意味で、落毛・抜毛のことである。女が袋を頭に乗せて家々を歩き、女の人たちの抜毛、落毛を買うのである。それでかもじを作るのであった。昔は落毛・抜毛まで金になったものである。』
もちろん身売りの話も出てきます。それに比べれば抜け毛を売るのはさほど悲惨ではない。ただ、売る方も買う方も、生きることに必死だった。もう抜ける毛もなくなった頃には命も尽きていたかもしれません。冗談みたいですが、実のところほんのひと昔まで、糊口を凌ぐということはそれほど大変なことだったのですね。