< 蟠る → 吐露する >
(今日のブログはオタクっぽい記事です。AIと呼ばれる人工知能がどんどん人間ぽくなると言う前提で細かい話になっています。あまり興味のない方は読み飛ばししてくださいませ。僕は今後僕たちがどうやってAIと付き合っていくのかに興味があるのでそれを小説に仕立てたいと思っています。要するに暇つぶしです)
心の中にわだかまる(蟠る)ものを吐き出す。例えば小説を書く事は…それに最も適していないか?
心の奥そこにしまいこんであるものを登場人物に仮託して語る。くたびれた精神の自己治療、かもしれない…僕の場合。
形になるならないは別として、たった一人の人にでも読んでもらえる可能性は自分を支えてくれる。蟠る、とこういう漢字だとは知らなかった。虫が番う(むしがつがう)、、、意味深だ。
2019年の10月葛飾文学賞に応募した。落選してがっかりした気分まで味わえた。見てもらった先輩に…もしかしたら何かの賞に引っかかるかも…言われ、少しその気になっていたので…厚かましくもマジがっかりしてその後笑っちゃいました。欲が深いなぁ。
もともとこの話は水戸さんをめぐる思い出が日々薄れてしまうのはなんか寂しくて記憶に残そうと思ったことがきっかけです。書き出したらあっそうだと思いつき…次のビジネスの青写真にもしてやれとばかり、ぼくの代理を小説の中に登場させた。小説の中ではそのビジネスが成功する兆しを見せて終わる。お手洗い周りのお掃除屋さん…これは今でも本気で、一儲けしてやろうと、もしも、もしも、そういう状況になり、体が動けば、僕のことだからきっとやる、あはは。
自由の庭に集まった楽しい人たちもお顔とご性格の一部を反映させてみた。こんな設定でもしなければとてもじゃないけど10日(2週間だったかもしれない)か、そこいらで400字詰めで120枚の原稿など書けやしない。30年近く前にやはり100枚位「クロベ」(カラスと猫が主人公の物語、目に余る自然破壊に動物たちが決起する物語、筋はもう忘れかかっている)という童話を書いたことがあったけど、小説は初めてだったので結構楽しめました。
((今書き出した小説はどうせ三文文士の描く小説、思い切ってでかいこと書いてやろうかなと思ってます。命を削るような創作活動とは、全く関係ない自分で楽しむ空想小説です。今年の秋の完成を目指してます。カズオ・イシグロが早川書房から子供相手用のAIロボットの物語を発表することになっているので、僕は大人相手用のAIロボットの物語、それに合わせています。ノーベル賞作家の向こうを張ると言うわけです(立石図書館に1冊だけあった彼の作品、中国の租界と戦争が舞台です。題名は忘れましたが感銘を受けました。幼なじみの日本人の友人を通して、日本人を理解しようと肉薄していく気持ちが本に込められていました。僕の偏見かもしれませんが彼は…イギリス人だと思いました、幼なじみの日本人と成人して出会った、戦時下における、お互い命がけの画面での描き方が、僕にはそう思えました、微妙な気質の違い。日本人の決断のあいまいさはイライラするだろうなと思いました、日本人のぼくも、それを突き付けられて、正直、戸惑ったことを今、思い出しました、戦時の厳しい現実における意思表明の場面で僕だったら、どうだったろうかと、考え込みました)
AIロボットの描き方はどのように違ってくるのか、その違いに、めちゃくちゃ興味あります。ノーベル賞作家、恐るに足らず。テキが相手のAIをどう描くかは見当をつけてみた。
AIから子供に向かって「刷り込み」(本能的な短期学習を意味する本来の意味を拡大解釈して精神の奥の方まで達する学習と言う意味で使いたいと思います)が行われるだろう。あるいはまた、もしも子供の方からAIに対して刷り込み作業が行われるとすると…これはややこしいことになり、想定外。それでも僕の作業に何の影響もない。出来上がったもの同士の比較の仕方が違ってくるだけの話。
AIに対しての刷り込み作業を子供がやるか大人がやるかでストーリーが全く変わってくる。
反対に、AIから子供あるいは大人への刷り込みになるのか、これまた別のストーリー。
僕のは大人がやるストーリー、今のところの僕の構想では。
どの設定にするかによってストーリーはそれぞれ大きく違ってくる。スリリングなのは大人からAIへの刷り込みの方だと思うが…間違っているかもしれない。既成事実に凝り固まっていない子供の方が優れている場合があると思うからだ。
AIが人間に刷り込みを行う場合、、、可塑性の高い子供に対する刷り込みと、それほどでもない大人に行う場合のストーリー展開。
AIの可塑性に子供が人間性を刷り込んでいくのと、大人とでは、どちらがスリリングかは、僕の予想では、後者だと思う。後者は予定調和が予定されてない分、AIの伸びしろが大きい。つまりAIも子供だましではいられない、大人の人間の全人格と対峙しなければならない(AIは子供に対しては優れた教育者にはなれると思う、これを言うのも恐る恐るだけど。子供がどう育つか別として)
まだ全体像が見えていないストーリー展開に関する予想はこれぐらいにして…
そもそも今年の秋に発表する作品の設定を発売元の早川書房がオープンにしたその意図が僕には謎であり愉快なのです。本を売るためだけとしても作家の自信に溢れています。同じ設定で他の作家が発表してしまう可能性もあるわけですからね(僕が去年見たその新聞記事は本の書評欄と一緒に載ってた発売予定の本の中の小さな記事でしたけど、売るための惹句としては勇み足、種明かしのしすぎと、ぼくには感じられました。それとも僕は幻を見たのだろうか?!勘違いだって構わない、楽しいスタートが切れそうなんだもん)
今までいろいろほらを吹き続けてきましたが今回のは結構愉快なホラ(法螺)で、ホラの吹き甲斐があります。想像しただけで愉快になり、ちょっとワクワク、ドキドキできます。全く以って安上がりなお遊びです。なんでも金優先の世の中で、原稿用紙代もかからないのですよ、音声入力、あはは🤣。書き終わったらそれを見るたんびに大笑いしたり、ひとりでニンマリできると思います。しみじみしんみりもしたいし、たまっている想いも吐き出したい。設定が100年間の物語、と結構大胆なものもあるせいで、書くと決めただけで、僕にはおよそ不似合いな、ストーリーの気宇壮大さが考えただけで愉快になるんだろうと思います、僕が見つけたスマホで書く、広げた大風呂敷の物語どうなることやら、来年の今頃が楽しみです。竜頭蛇尾に終わる事は目に見えているんだけれどもやってみなければわからないし、楽しめる事は分かっているので楽しんだ分だけ楽しんだもの勝ち、ああ愉快。
皆さんも想いの丈吐露しつつ自分だけの物語紡いでご覧になりませんか。
僕の父は若い時は遊び人で働いたことがありません…僕は気持ち的には…父の分まで働いたつもりでおります。それでも、遊び人の血をひいているので、ろれさんに褒められて父ともどもお礼を申し上げますありがとうございます!😙
そうでしたか、、、え!?と言う感じでないのは…僕自身、吐き出すことが先決で、一番の関心であることが今わかりました。まぁ出来上がったらこいつを肴にいっぱいやりませんか?カズオイシグロを超える作品、ここまで宣言した以上…書き終わるまで楽しめます😄
わだかまる、の本義はへびがとぐろをまくように、輪状にかがまりまがるで、心がねじまがる、悪意を持つなど、あまり良い意味で使われることはなかったようですが、AIをテーマの小説のキーワードにするというアイデアは面白いとおもいます。最近のAIの進化は目を見張るものがありますが、所詮は人間のだれかの頭脳のなかで思いつかれたもののコピーでしかありません。心の中の最も複雑でわりきれない暗部のようなものを具現化するのは人間の灰色の脳細胞に勝るものはありません。カズオイシグロは苦手な作家ですが、いちまるさんがあっと言わせるパフォーマンスでノーベル賞作家を超える作品を書いてくださることを期待しています。
なお、そのAI小説『クララとお日さま』は、3月2日に世界同時発売されたようです。https://www.hayakawabooks.com/n/n50f9ab73dfd0
花曇りの中に心を置いてきたとしても残された相手も微妙にありようを変えてくることもあるのでしょうか、相手が生きていても亡くなっていても、ぼくはあると思いたいです。そのために心を置いてきたのではないですか、心を置く…花曇りのように優しい。 地下に溜まった清水が湧水となってあふれるような語りがびすこさんにお似合いだと思う、まとめると言うよりは…湧水のように、お気ままに少しずつ書き留めてゆかれるようぼくも願っております♪
ある評論家が、日常すべてが円滑に流れているときには人は何も意識することはないが、その流れが堰き止められたときに意識が表面化する、と言っています。何かがうまくいかない、という感じ。今はやりの言葉で言えば、違和感というやつでしょうか。わだかまり、もそうですね。どうということのない「水のごとき」のお付き合い、深く考える必要のない日常、そこからはわだかまりは生じないでしょう。
私の70余年を振り返って、わだかまり、をちょっと女性的に言わせてもらうと「心置く」という感じでしょうか。そう、自分と相手の立場の差を考えてみたり、気を遣ったり、遠慮したり、これまたしっかり意識してしまうというのが心を置くことですね。
数年前の春でしたか、妹が脳内出血の後遺症で神経衰弱気味になり、一緒に何か馬鹿げたことを言ってワハハと笑い合える、そんな関係が消えてしまいました。今思うと相手のそういう状態への私の理解が足りなかったのですが、それこそ初めて違和感のようなものが生じて、ふと浮かんだ句がありました。
・心置く姉妹の仲や花曇り (びすこ)
男は蟠る、女は心置く。でも蟠りの方が新たな創造や前進には適しているように思います。何かを吐きだしたい、自己治療?そこからドイツ語でいう「アンザッツ」つまり助走が始まる。
でも心を置くと、そこを踏み越えようという気にはなりません。逝ってしまった妹の場合は別として、自分にとって心地よくない人達との間には、心を置いたままにしておきたいという気持ちの方が強い。それを「確執」と呼ぶ人もいるけれど、確執というのは相手に挑むようなニュアンスがあるでしょう。そうではなく、いわば結界を設けて立ち入り禁止にするような。
このシリーズ、あと一回で終わりですか。今日になって気が付いたけど、いちまるさんのブログをきっかけに、私もあれこれ考えてそれを文字にするようになりました。ひょっとしてクレマチスさんはそれを奨励しておられるのかしら。