< うつむく >
ボランティア活動についてはいろいろな思いが錯綜して記憶を脇に退けておいてきましたがこのブログを書き出して一気に記憶が戻って参りました。
その頃の状況を今思い出しますと…僕は近所の重度の障害の方をお二人に何かと相談に乗って差し上げてました。
女性の方は年頃の娘さんが面倒を見てらっしゃいました。男性の方は当時六十過ぎのお父さんが世話を焼き、職業は料理人の方でした。お父さんも障害をお持ちでした。あの頃は今みたいにサポート制度もできていなくて全てに手薄でした。その分、障害者手当が手厚く、言い換えればその金で自分でサポートする体制を整えろと言わんばかりの使い勝手の悪いシステムしかなかったのです。24時間介護が避けられない状況で…サポート技術を持たない家族があれこれ工夫しても限度があります。極端な言い方をしますと水を飲みたいと言うことを伝えるだけでもすんなりとはいかない状況の中で対応する家族たちの疲労は増すばかり。まわりはどうしていたかと言うと…例えば練馬区介護人派遣センターが、先駆的な取り組みをしていて、民間の力で重度障害者でも共に生きる地域・社会を求めて、、、と社会に向けてアピールしつつ、スタッフの皆さんが奮闘してらっしゃいました。四つ木に住んでいらしたMさんと何度もそこへ足を運び、自立の道を勉強させていただきました。
(そこの方の一人が僕が作った車椅子用の改造車をご覧になり高く評価してくださいました。とても励みになりました)
Mさんの親戚の方が、Mさんと同じ脊髄小脳変性症でありながら、その派遣センターの仕組みの中にうまく収まってらっしゃいました。スタッフたちの熱意と研究心、試行錯誤に心動かされました。
もうお一人は東立石の女性、Tさんでした。事故のために四肢麻痺になった方です。
その頃の僕の日常はと言えば、仕事をしながら病名もわからず毎日意気消沈している母を隣りにのせ、後にはMさん、たまにTさんの用足しをする「精神的な忙しさ」マックス、八方塞がりの毎日でした。
(ご本人たちがすがってくる力の強さにたじろいでボランティアの人たちが尻込みするのも無理は無い。また、ご家族を含め当事者の人たちの人脈の薄さも無理はありません。息をひそめるように暮らしているのももちろん原因ですが、ここでこれ以上話をややこしくしないために、人脈を増やせないのは地域の力がないせいだと言うことにしておきます)
Mさんには日中はヘルパーさんがつきますが、ガタイの良いMさんの身体介助、排尿排便、入浴は専門職の方でもかなりの重労働です。見るからに我慢強いヘルパーさんから僕に何度も泣きが入りました。たまらず辞めていく人も2人ばかりいらっしゃいました。Tさんもまた同じような状況でした。体格のよろしい Tさんも夜間は家族の負担になります。もう一人のぼくの重度障害の友人はある宗教団体に入っていて、活躍されてらっしゃったので自分で苦労しながらもあちこちのサポートを受けながらけなげに自立された生活を送ってらっしゃいました。もともとはこの方に紹介されたお二人なんですが…僕としてもできる範囲内と思ってやっていても、仕事、母の事、ボランティアの事…体には自信がありましたが、蓄積するストレスにはかないません。
僕の慌ただしい毎日の動きを見ていた母…なんでお前がそんなことまでしなきゃいけないの?と悲しい顔をしました。
母がそう思い、口に出したのには、ちょっとした事件?が関係してました。何日か前にMさんがある介護グループと一緒に旅行に行った帰り、僕が彼を練馬区まで、母には隣に座ってもらい迎えに行きました。観光バスから降りてきたMさんが身振り手振りとご不自由な言葉で休みたいと言うので、母も連れファミリーレストランに入りました。それからはとんでもない難関が待っていました。お手洗いに連れて行ってびっくり。旅行先で食べたたくさんのご馳走が消化されて紙おむつの中に溢れかえっていました。(なんで同行のスタッフに言わなかったのか。20歳前のMさんは20歳前の若い女性たちに頼めなかったのかなと僕は後々自分を納得させました)どう処理したのか思い出せません。Mさんをトイレに残し、母に簡単に事情を話し待ってもらうように伝えトイレに戻りました。もうその時には匂いはトイレ中に充満していました。悪戦苦闘の上処理し終わりドアを開けると臭いは誰にも明らかにわかる位店内にこもっていました。僕は事情を説明しようと思いましたが「物」は処理してあるのだし、とやかく言われる必要はないと無理矢理に自分を納得させ勘定を済ませて車に乗り込みました。生きた心地がしませんでした。母ももちろんうつむいてはいましたが事情は察知していたようです。ほかの心配事も重なり体に触ったのだと思いますが母もさらに体調を崩していきました。
母のうつ病を発見したのはかかりつけのドクターの妹さんでした。妹さんは大学病院の循環器系のお医者さんでしたがお兄さんの医院にも毎週金曜日だけお手伝いに来てました。たまたま母がその先生に診てもらったのです。院長先生とは全く違う見立てでした。母を待合室に待たせたまま僕は診察室に呼ばれました。
ニ、三、問われるままに答えていて、、、最後に思い切って言いますみたいな感じで伝えられました、間違っているかもしれませんが…ととても控えめな言い方をなさって、、、お母様は鬱ではないか。
お兄さんのドクターがあの手この手で薬を処方してもどうも体調がおもわしくない挙句の果てのお見立てでした。薬を処方して一週間ほどしてからどうも快方に向かっていると感じられました。
親しい友人にも手助けを頼みましたが、僕の動きをそれとなく知っている友人たちは恐れをなしてニの足を踏みました。僕ってどうなっちゃうんだろうかと思って持って行き所のないイライラを無理矢理押さえつけてた頃、まさに天の助けか、T さん、Mさんとも、多摩にある東京都の介護施設に待ちに待った空きができ(つまり施設にいた、お二人お亡くなりになり空席ができたと言うわけです)お二人とも前後して入所できました。引っ越しのお手伝い、途中荷物の過重積載で高速道路上でエンスト起こす事故もありましたが、JAFに高速道路上の公衆電話から電話し、助けてもらい台車を借りてなんとか引っ越しが終わり、帰宅してみると今思えば疲れが自覚できない位、疲れきっていました。本当に疲れると疲れが自覚できないんだなと今思い出しました。
2、 3日後母の鬱も快方に向かっていたので昔ペンキ屋で使って、定宿にしていた鴨川の民宿に車で出かけました。体が少しかゆくなってましたが一晩泊まって東京に帰りました。寝る時も背中と言わず胸と言わず痒みが止まりません。そのうち猛烈な痛みになりもちろんその夜は一睡も出来ませんでした。明くる金曜日、かかりつけ医院に朝一番で駆けつけその時も当番でお兄さんのお手伝いに来ていた女医さんの前で裸になった僕自身がびっくり。脇腹から背中にかけて神経叢の通りに水ぶくれ、おいおいなんなんだこれと言う感じです。
女医さんは少しもあわてずゴム手袋をして軟膏を塗りたくり…帯状疱疹と病名を知らされ特効薬なるものを出してくださいました。特効薬が劇的に効き治りました。あと一日遅れていたら間違いなく後遺症になやまされていたと思われます。それは毎年訪れるようなしつこい後遺症です。毎年痛みに悩まされている僕の仕事のお客さんもいらっしゃいました。辛そうでした。毎年その時期が来ると同じように激痛が走ると言うのです。人間の記憶とその体の反応と精妙な仕組みにびっくりしてしまいます。その頃アリナミンを常用していましたがそんなもの免疫力が落ちた体には何の役にも立ちませんでした。ストレスの原因は…長年に及ぶボランティア活動のツケでした。無理に無理を重ねていて、お二人が多摩のほうの施設に移ったと同時に体がほっとした、その時を待っていたかのように反応したのでした。病名が判明したところで…やっとその夜、疲労を感じることができました。安眠できました。すんでのところで救われました。
今思えばTさんMさんと十八ヶ月位のニ人三脚の悪戦苦闘じゃなかったかと思います。M さんもTさんも家族が頼りにならないと重々身に染みていましたから、藁をも掴むも気持ちで僕と何人かの人を掴んで離さない気持ちは、今ならよくわかります。施設に入ってからも人を通じて会いに来てほしいと何度も電話がありました。同じ施設に入ったTさんからも電話がありましたが、母の鬱を理由に面会を断りました。ほどほどの介入と言うことができない自分自身の未熟さを痛感いたしました。
当時葛飾区内にご近所の方もあまり気がつかない重度の方400人近くいたはずです。東立石と四つ木にいらしたTさんとMさんのことを知っている人は関係者以外少ないのではないでしょうか。ある時、区役所の担当者と車に乗っている時、彼がポツリと言いました…ねぇいちまるさん、葛飾区内の人はこの重度の障害者の方たちのことを一生知らずにいらっしゃるんでしょうね、僕だってこの担当にならなかったら一生知らなかったと思います、、、。
(母を伴ってあちこちウロウロしたこのときの共通経験が後々の母と僕の関係をとても軽やかなものにしてくれるとはもちろんこの時思ってもいませんでした、何が幸いするかなんて本当にわからないものですね、男の僕の介護をおおらかに受け入れてくれた母に感謝です)
昨日自由の庭で20年前に評判だった映画を葛飾文芸クラブのみんなで見ました。
昨日の映画で、、、障害を持った方達の素敵なありのままを伝える語り部の女性のような心優しい人が日本に1000人もいたら世の中変わるとおっしゃってた篤志家がいらっしゃいました。僕はうつむいて… 10,000人ぐらいいらっしゃいますよとその方に言いたかった。そういう方たちの声が小さいのは…自分自身のハードルを下げられない周囲の環境と自分の専門職としてのプライドだと思う。疲れるのは時間の問題。本当は僕らの問題なんだと思う。どうするか。僕らが受信機の感度を上げれば良い、あなたの問題は僕の問題、社会で起こっている全ての問題は僕の問題でもあると言う自覚、僕の感度は正常か?
4年制の福祉関係の大学を出て施設に配属された方たちが10年ぐらいして退職していかれる現実は厳しいものでした。精神的な過重労働だと思います。日々そういう仕事に従事されている方々のたくましさは散々目にしてきました。そんな頑健な人たちでも見た目によらず腰を痛めている人が多かったですね。当時、日本における重度の方の身体介護は北欧の男性が3人がかりでやっているような仕事を担当者1人でやっているような時代でした。遅れてましたね日本は。男性も女性もほとんどの人は腰に問題を抱えていました。
そういう方たちの挫折や苦しみが今日の制度に反映されなくては、、、と自覚することがめぐりめぐって彼らを応援することになると思います。制度に下駄を預けて見て見ぬふりはもうできませんね。昨日見た映画は20年前のものだそうですが、20年間にたくさんの人が見たと思います。見た人全員に遅い作用かもしれませんがじわじわと伝わり心に残ったと思います。僕も内心穏やかではありませんでした。映画を見ながら道半ばにして退職していった現場の職員さん達の残念無念の胸の内、思いおこしていました。
現在のような、充分では無いにしろその制度成立に現実のデータを積み上げて民間の立場で国や地方自治体の窓口で粘り強く制度の改革の折衝に当たったその人たちこそ僕らは支援すべきなのだと思いました。座敷牢がほんの30年前まで至るところにぼくは存在したと思います。囲いこまれた精神的な座敷牢は今も。今本当のところどうなっているのか… 20年前に制作されたこの映画の投げかける問いの本当の意味を理解するためにもっと勉強しようと思いました。今障害と定義されている方たちの存在意義が遺伝子単位で証明されたとしてそれで世の中の意識改革ができるのか。別のことが証明されたらどういう言い訳をするんだろう、そんなものを意識改革と言っていいんだろうか。論理による説き伏せは同じ論理で説き伏せられる可能性があると思えてしょうがないのです。(女性の映画監督さんごめんなさい、分からず屋の僕らのためにわかりやすく作ってくださったんですよね…わかってます、問題は切羽詰まってますもんね、情熱感じます)
制度の逼迫状況を改善するために僕らに何ができるだろう。意識改革ってなんだ。意識を改革する、その意味が「ものをもので証明させること」だなんて声高に言おうものなら…映画に出てきた男の子に笑われる。僕は腹立たしくなっていた、全く違う意味で泣きたくなった、自分自身を含めて。未来の人間に対しても、ちょっとかっこ悪すぎる。
彼の答えは明快だ…
「ある(存在する)ものは全て必要があって、そこにあるんだ」
(何もない世界から何かが生まれたとしたら今ある何かはバランスを取るために必要だった何かなはず、ということを彼は大人にもわかりやすく話してくれたんだと思った、そこに良いも悪いもない。人間なんか一人もいなくても地球にとって良い状態と言うのもあることを想像すれば…僕らは人間にとって良い状態だけが良い状態だと思う傲慢を戒めるための謙虚さが欲しい思いました)
ちょっとくどいですが、、、
全てが「あって:存在して」やっとひとつの世界が成り立っている。無から世界が生まれるためにそんだけのものが必要だった。そうやって世界は成り立っている。余分なものなんて何一つない。足すことも引くこともできない世界。足しても引いてもバランスが崩れちゃってありえない世界になっちゃう。こんな簡単なことに、証明が必要なわからずやの大人たちが歯がゆいだろうなぁ、彼。遺伝子の仕組みなんか何一つ知らなさそうな彼は僕らが知らない世界を知っている、と思ったほうがいい、と思いました。
謙虚になるべき、と思わせてくれたと言う意味でとてもいい映画でした。コロナ時代の今これを四日間無料配信にした関係者の方達の快挙でした。映画の中にクレマチスさんがかつて手がけた本の、著者の重大なテーマの一つとなっていた中南米のインカ先住民の遺物を展示した天野美術館が出てきた時はこの映画とのご縁を感じました。
(上の文章とてもおかしいと思われる箇所がたくさんあると思います。屁理屈こねくり回しましたが何か僕は納得できないのです。映画を作った方が納得できないのではなくて説明できてしまうことが納得できないとでもいいましょうか、無理に説明しなくてもいいんだよきっと、それが証拠に少年が言った言葉に、若くして難病で亡くなった女性が残した言葉に、反応できる僕らがいるんだもん。それは心を合理化するために吐き出された言葉ではない。合理化して理解してはいけない言葉なんだきっと。言葉では間に合わないと自覚しつつ言葉でしか伝わらないと観念した人が吐き出した架け橋のような言葉。急速に弱ってゆく眼や脚に…今まで支えてくれてありがとう…だって)
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最終更新: 2021年2月15日
動詞マニア うつむく 003
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とても重いテーマが溢れていて、簡単にコメントできない。これを拝見して、自分はロクでもない母親にさんざん苦労させられたけど、それしきのことで不平・不満を言っちゃいけないんだ、と思いましたが・・・やっぱり業腹です。
映画のことはろれちゃんとも話しましたよ。感想文を書くと長くなりすぎるから、またにします。