< 嗜む > 薙刀を嗜む、、、と言う言い方でいいのかな? 今は絶交しちゃったぼくの母も知ってる(家には数回きました、後に彼から家に電話があって、僕が自律神経失調症を理由に彼に絶交宣言するのを傍で聞いてた母は電話を置いたとき…お前もさっぱりしてるね…もうつきあわないないの? と呆れてました)僕の親友(だった)の奥方が薙刀の使い手でした。彼は奥さんのことを言うとき毎回…うちの鬼嫁が…と枕詞のようにして使っていました。 僕の想像ではきっと、学生結婚した彼はお見合いの席でお仲人さんが冒頭の言葉をそれとなく伝えて、不届きなことをなさいますと寝首をかかれかねませんよと遠回しに伝えたのではなかっただろうか、と思いました。お会いした時もどことなく武芸の心得のある人だなと思いました。隙があるようで隙がない、なんちゃって。あ、そうだペンキ屋になってから彼の家(3階全部)の神田にあるそこそこ大きなビルの4階全部のフロアの壁、けっこうな広さなんだけど仕事もらって、休憩時間に奥方と話したとき、 、、いちまるさん、私たち(女性の遊び仲間)今シャンソン習ってるんですけど…もうこれからは4つも5つも趣味を持ってないと間が持てませんね、、、ああ、そうですか有閑マダムはそんなもんでしょ、、、と腹の中でセセラ笑ってましたけど一般庶民にとっては、いまだにそんな風になってない、世の中シビアだなぁと思います。 この奥さん生まれも育ちもいいもんだから(有名な政治家輩出の家系)… 朝の新聞のチラシで見た…毎日、焼きたてのパンをお届けします…の宣伝文句に早速電話…住所を伝えて、「食パン一斤届けて下さいお願いします!」…この話彼は会社の朝礼で披露した。みんな真面目な話するのにとぼけたやつです。ま、愛嬌はありましたね、部員の人にも慕われてましたし。 どうしようかな?この僕の友人の話をし出すと結構いろいろ思い出すことがあって僕にとっては懐かしい思い出なんですが聞く側にとっては面白くもない話だとは思いますが、始めます …江戸時代、江戸では知らぬ者ものはいない儒学者で佐藤一斎と言いまして昌平黌の校長さんの玄孫が彼です。絶交中なのでトラブルことがない(既にトラブル中なので)ので言っちまいますけど、明大、史学科の陽明学の専門家になるはずだったのが(彼の恩師は自分の後釜にするつもりだったとか)無芸大食、というか無類の大酒のみ。てんで学者になる気なんかなく、ぼくと知り合った頃は、銀座にある韓日系の東洋経済日報社と言う経済専門誌の企画部にいた。僕はそこの経理部にいた。お互い酒をたしなむどうし、意気投合したものの、薄給でお金がないのでそこら辺の公園で塩豆かじりながら安酒を煽っていました。あとは有楽町ガード下の今で言う角うち?で缶詰を開けてもらいながら立ち飲みです。給料をもらった直後は赤ちょうちんでお大尽(おだいじん)気分。 彼は夜の一杯がまずくなると言うのでいつもお昼はでかい体でもりそばだけでした。奥さんからお金は毎日あてがいぶちしか預かってないと言ってました。 ある時新橋の飲み屋さんに張り紙が出されました。30分以内に日本酒一升飲んだら無料。早速連日開店と同時に顔を出し連戦連破。店のほうもたまらず…一升五合飲んだらただにします、と広告を張り替えました。彼は喜び勇んで日参。もちろん店だって商売、それから一週間後広告は無事撤去されました。 芸といえば、厚い電話帳を両手で真っ二つに破ると言うたいして受けない一芸しかない彼がいま、どうしているか…あまり興味がありません。まぁそれはそれとして、帝人、をあっさり辞めてきちゃうような人だからもしかしたら、そこんところがぼくと気があったのかもしれません。 大酒のみでも酒をたしなむと言う言い方で良いのかどうかよくわからないまま話の埋め草にはなりました。Mさんごめんね、元気かい? (彼は僕より一級下) (あ、彼の知り合いで、佐藤家系宝鑑、と言う本を自費出版し後に東洋文庫から発行された本の著者がいて、佐藤さんとおっしゃるこの人とも親交が始まったのですが、佐藤ビルを建てる(地方に散らばる佐藤を名乗る名士を糾合して寄付を募り佐藤会館を作る?今生きていたら間違いなくクラウドファンディングを使ってたと思う)と言う夢もむなしく東京であっけなくなくなってしまいました。山陰のほうに奥さん子供がいたことが後で判明いたしました。山谷界隈では、雪駄を履き、その履物を八の字に開いて歩く有名な人でした。火の玉、と言う小冊子を発行していました。借りている5階建てのビルの5階に住まいがありまして、右から左までいろいろな人が出入りしていました。 亡くなる少し前国立がんセンターからいちまるさんにあげてほしいと言われた年代物のお膳をもちろんいただきませんでした。そんなもんもらったって少しも嬉しくなかったからです、あはは。会うだけで愉快になる人でした。日雇い労働の合間に日比谷図書館上野図書館に1日入り浸りの人でした。新聞社の取材があれば、作業服に身を固め、3日労働4日学習と胸をどーんと叩き、出身大学を聞かれれば…僕は社会労働大学出身ですと胸を張っていました。のちに僕はこれをパクリました。彼は深く日本の歴史を嗜む人でした) (このお題はごーぎゃんさんからいただきました)
top of page
bottom of page
はい、お酒の甘みが増します、甘露、甘露です。 とにかく働く、動いていればポンコツでもたまに油をさす位で長持ちします、実証済みです、ぼくです^_^
これからは4つも5つも趣味を持ってないと間が持たない。それ、有閑マダムだけではないと思いますよ。10年ほど前の夏にスイスの村で知り合った日本人カップル。女性の方は私と同い年、男性は当時すでに80代後半でした。実質的に夫婦なんだけど、財産のことがあるから籍は入れてくれるなと男の方の子供たちに命令されている、というのですが、笑ってしまうのは実際には女性の方が自力で事業をしてもっと資産をもっていたこと。おまけに若くて体力もあり、パリでレンタカーを借りてハンガリーの音楽会に行った帰りにスイスに寄ったそうで、でっかいオフロード車を運転しているのも彼女でした。
で、そのお爺さん、当時は世界各地の音楽会にでかけ優雅に暮らしているようでしたが、わが亭主がもう70を過ぎていたので、いい加減仕事をやめてのんびり暮らしてもらいたい、と私が言いますと。「いや、奥さん、それはいけません。とにかく働けるうちは働いてもらいなさい。朝起きてね、さて今日はどうやって一日を過ごそうかと考える、それほどつらいことはないんですよ。」ふーん、という感じでした。私自身はもう働いてなくて、でもやることはいろいろあったから。
でもこのお爺さんの言葉は、働き続けたい亭主にとってはすごい援軍になったらしい。だって80過ぎても仕事をやめる気はないっていうもの。コロナで大変な今の状況を乗り切るまではやめられない、っていうけど、乗り切ったらまた新しい山を見つけると思う。「われに七難八苦を与えたまえ」いや、とうに九難十苦くらいもらってるべさ。
ま、世の中にはすぐ退屈する人とそうでもない人がいるってことで。
塩豆でお酒?先日、山上憶良の歌を読んだのですが、そこに塩で酒飲む人が出てきましたよ。
風雑(まじ)り 雨ふる夜の
雨雑り 雪ふる夜の
すべもなく 寒くしあれば
堅塩(かたしお)を とりつづしろひ(かいて少しずつなめ)
糟湯酒 うちすすろひて
咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに
しかとあらぬ ひげかきなでて・・・