< しゃべる >
昨日、青戸のバーミヤンで兄と1時間、兄の友人を交えてさらに2時間、その後先輩のところに寄って2時間しゃべり続けた。兄とは7、3の割合で主に僕が、他の方達とは5対5くらいの会話量で話した(亡くなった母は会話相手との会話割合について敏感だった、今ちょっと他のコメントで母を思い出し、出番となりました^_^)
兄との会話の内容は、たとえば、、僕が6歳の時兄は13歳、目の高さが違う。見える風景が違う。6歳の僕がいて家族が話す内容と13歳の兄がいて家族の話す内容はおのずと違ってくる。それを報告し合うだけでお互いに何も知らなかったことに気がつく。6歳の僕を前にして大人たちは油断がある。その話を兄にするとびっくりすることばかり。一方僕が赤ん坊の時、柴又の川甚を通って江戸川べりに家族揃って花見に毎年行ってた、なんて話は昨日初めて聞いた。
兄の友人のO K さんとの話では若い時から働きに出ていたO Kさんを取り巻く先輩の女性たちの会話の美しさ…だった。短大卒業とおぼしき女性たちがO K さんたち後輩に優しく指導してくれた楽しい思い出をついこの間のような話し方で伝えてくれる。
声音(こわね)と話し方の美しさを今でも思い出すそうだ。NHKのベテランアナウンサーの1人にその面影があり、彼女が担当の深夜番組は欠かさず聴いているとおっしゃってた。
帰りに寄った先輩(僕は先生と呼んでいる)との話では…英語教師だった先輩の生徒との交流の話で盛り上がる。いまだにその関係は続いていて当時の生徒だった人も今は70半ば!先生と生徒の関係は変わらない。僕は感嘆の声を上げる。はつらつとした女生徒に囲まれた長身でスマートな先生との交流はまるで青い山脈の映画に出てきそうなシーンだ。今もLINEでつながりさらに個人個人とつながっている。すごいことだと申し上げた。こんな当たり前のことをぼくから聞いてやはり、当たり前だと思っていたつながりの継続について新鮮な驚きがあるようだ。そんなつながり当たり前じゃないですよ、とダメ押しする。僕と別れる頃先生の顔も晴れ晴れする。あんなこんなで数時間はあっという間に過ぎっていった。
これだけ気合を入れて話すと結構お腹が空く。おしゃべりはスポーツだと実感した。会話に要する脳のエネルギー消費量は20%に及ぶそうだ。他のスポーツと違うのは回復が早いことだ。他にも…気分が亢進する。情報が得られる。情報の価値付けは相手がいれば格段に精度が増す。相手の迷惑を考えながら少し毒を吐けば毒消しになる。
家に帰ってLINEに少しコメントを載せブログにコメントを載せる…脳の疲れはそれだけで回復する。脳はいつだって臨戦態勢を即時に整える。おまけにお腹も空いている…体を傷めないスポーツとしてオススメだ。葛飾名物、女の人の立ち話、他の区の人から指摘された。葛飾の人は元気がいい。街の中であっちでもこっちでもスポーツ代わりのおしゃべりをしているからね。ほんとにスポーツなのかどうかやってごらんあれ。一人一人がやってみればすぐ実感できる。
(葛飾は元気が出る街を売りにすればよい。葛飾に来て立ち話をしよう!)
(高齢になっても異性の友達がいたほうがいい。親しいお付き合いになるほど、ことの成り行きとしてストレスが溜まる。男女間は、いるだけでストレス、良いストレスもあるし悪いストレスもある、当たり前(それでもストレスが溜まらなければなければ尚結構)当然相手も同様。自分のストレスは当事者以外の人に話して解消する。相手の人が解消できない場合…つまりストレスの不均衡があるなら、その付き合いも解消する、そのぐらい軽いお付き合いがお勧めです。そんなに先は長くありません、無理に付き合う必要はない、ちょっと冗談。
高齢者の交わりは淡いほうがいい、僕はそう思う。淡い交わりが親しくないなんて単なる思い込みです。誤解を生む位理解し合えれば上等だ、とかの小林秀雄も言っている。親しき仲にも礼儀あり、僕はこれが好きだな。皆さんはどうですか)
失言したらすぐ謝る。相手が言い過ぎたら言い過ぎだと教えてあげる。そう気楽に指摘しあえる位には親しくなって、思いっきりおしゃべりすればとても素敵なスポーツだと思う。自由にしゃべれるってなんて素敵なことだろうと思う。しゃべらずにいると…兼好法師みたいに腹ふくるる思いをする。兼好法師がしゃべらないで健康を損ねるなんてシャレにもならない。
昨日兄の友人と話していて…OKさんは顔形よりも声と話し方の美しさが先決だとおっしゃった。美しさまで学べるスポーツがしゃべることなら、おしゃべりすることだけで日本語のレベルアップが図れる。血圧も安定する、多分。
(最近素敵な男の人の声を聞きましたか?
最近素敵な女の人の声を聞きましたか?
自分の声が相手の耳にどう届いたか気にしたことがありますか?)
(昔、日本語の美しさに惚れた韓国の詩人がいました、金素雲という日韓辞典を編んだ方です。僕は誇らしかった、隣国の人も認める日本語の美しさ。日本語を使っておしゃべりする楽しさ。それを心がけるだけで健やかになれるなんて、なんて素敵なことだろうとこの文章を音声入力しながら再確認できました。皆さんもっとおしゃべりしましょう。男のおしゃべりはみっともないなら、もっと見っともなくなろう。健康優先で行こう。先が見えてる、男が黙ってちゃ男がすたる。女の人はほどほどにおしゃべりしてください、それぐらいでたぶん会話量は半々になると思います。男も女も相手を大目に見てあげましょう。お互いに理解し合おうなんてそんな大それた考えを起こさないほうがお互いの幸せのためだと思いました。お互いの誤解を楽しむ位の余裕が欲しいと思いました。お互いの誤解を丸ごと受け入れる事がお互い楽だと僕は思います。お互いに全て理解しあえるなんて、、僕に限って言えば…居心地が悪い。小林秀雄が言っていた意味もそういうことだと僕なりに理解しています)
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最終更新: 2021年3月09日
動詞マニア しゃべる 026
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男なんて電車やバスの乗り物と同じで飽きたらさっさと乗り換えれば良い…と言う剛の者、の噂を耳にしたことがあります。江戸時代位までは、武家(不義密通は死罪)はともかく、町ではわりと緩かった…これも噂です、すいません。とにかく結婚したことないもんですから言いたいお見逃し下さいませ。
お喋りは社交で、これは原始、サルの毛づくろいに始まる、と誰か文明史の研究家が言っていました。葛飾の場合は昔から町の通りさえ社交の場だったようで、やはり都会は開放感がありますね。田舎も今は楽しいお喋りの場がたくさんできましたが、自分が子供の頃を思い出すと、女が二人以上集まったときはロクなことがありませんでした。若い既婚者が話すのは姑・小姑の悪口ばかり、中には泣いて訴える人までいて。一方、中年以上が寄り合うとみんな口を極めて嫁を罵る。ああ、いやだなあ、と感じ、自分が女なのに女は頭がおかしいと思うようになりました。冷静に考えると、女に風通しのいい暮らしをさせなかった当時の男に大きな責任があるのですが、それを悟ったのはこっちが大人になってから。
昨秋まで1年余りいた日本の郷里で老人の集まりに顔を出すと、役所や保健所の若い女性が必ずいて、離婚経験者やシングルマザーが多く(高知県は日本一離婚率が高い)、それだけでもう時代の変化を実感すると同時に、みんなあっけらかんと子育ての苦労を話し、それさえも楽し気なのを見て、この背景には男の(やむをえない)変化があるのだと思いました。土佐の男は結構お喋りなのですが、女はさらに喋りまくるので、だから離婚が多いのかもしれません。ま、それもいいでしょう。