< 読む → 書く >
(今回のブログは落ち着きの悪い結末になっていますので曖昧な物言いが嫌いな方はスルーしてください)
< 読む >
読む、新聞を読む、本を読む、人の心を読む…
昔、、、若い仲間と一緒に仕事していた頃…昨日は一日中、本を読んでいて疲れちゃったな、と本なんか読みそうにない若い仲間が言った。人は見かけによらないもんだなぁ…と思って、よく聞くとそれは漫画の本だった。あぁ漫画を、、読む。漫画は見るもんだと思っていたので認識を新たにしました。北斗の拳とかそのての当時の少年漫画。今では漫画読む、で良い。僕もたまに見る…じゃなかった読むことがある。本との境も曖昧になってきている。内容も充実している。さて
最近ちょっと暇ができてきたせいか本の読み方というか接し方が変わってきた。前は必要にせかされて読んでいた。今は…書いた人の考え方を学ばせてもらう、と言う謙虚な気持ちが混じってきた。他人の考えを垣間見る、他人の考えたことを拝見する、追体験する、他人の考えだと言う事を意識しつつソーシャルディスタンス?をとりながら読む。ま、黙って、「読み」に没頭するわけにはいかなくなってきたのです。こわごわ読む。こっちの気持ちが、下手に影響されたくないとこわばってきている慎重さだろうか。身構えないでハウツー物を読むようには読まなくなってきてますね。摂取するかしないか迷いながら食べてる感じ。眉に唾つけながら読んでいる。そんな自分がいる。そうやって自分も書いているからだと思う。書くと読む。あ、タイトル変えよ→書く と 読む
(書いてる人の気持ちを追体験している、と言ったら最近の読み方の一面をついているような気がしてきた。人をトリックに陥らせようとしてはいないか。自分がそうだからか、なぜ書くか、読んでもらいたいからか、自信がないからか、ただ書きたいからか、同調者を得たいからか)
なぜ読む。ひとまとまり、と言える考え方に接してみたいから。暇つぶし…大雑把すぎる。楽しいから読む…それもある。辛いから読む…そんなこともあった。迷うから読む…余計迷っちゃったこともある。今も迷子のままだ。ただ昔と違うのは迷子のままでいいと言う気持ち。中途半端が定位置。いつでもワープ(超高速で移動する : S F用語)できる気持ちをキープしていたい、何言ってんだか。
201 5年4月1日から2019年3月末まで公益社団法人葛飾シルバー人材センターで4年間監査の仕事をしました。監査の仕事の1つに金銭管理があります。金銭管理とは…金銭を扱う人の気持ちを先読みして事故のないようにする仕事です、私見。人を見たら泥棒と思え。人の気持ちを読むと悪さをする気が起こらないような仕組みを作れば良いことがわかります。例えば金庫の鍵はAさんが管理。現金の移動つまり出納管理するのはBさんが最終決済。お金の出金伝票にオーケーを出すのは Cさん、みたいに役割を分担します。魔がさす事は誰にでもある前提で決まりを作ります。空気を読むと同じ意味で人の出来心に注目して管理体系を怠りなく整備します。
僕の今の気持ち。
書くように読む、読むように書く、そんな態度になってきたのかなあ。
もう一度振り出しに戻って…なぜ書くか。
< 書く >
最初にお断りしておきますが…特に中身がない人間が何か書いて意味があるんでしょうか?自問自答する。
自分を弁護するわけじゃありませんが…意味があるような気がします。好き勝手書き散らしていますとまぐれ当たりで「何かを言えた気分」を味わうことがあるのです。この動詞マニアも、やっと先が見えてきました。書き終えたとき何かが変わる予感があります。動詞30個で自分自身をあぶりだす。たとえ当てずっぽうであっても数うちゃ当たるってやつです。ぼくの生き方そのもののようだな、あはは。僕みたいな凡人はひたすらこの方法しかありません。
文章を書く事は僕にとって2つの意味がある。
自分の意識に沿って書く…これは何をしているんだろう、ひとつは
塑像のようなものだと思う。散り散りに意識が飛ぶ気持ちの動きを書き散らしてゆく。これはまるで何もないところにとりあえず粘土の塊を置きべたべたべたべたと粘土をはり足していくみたいなものかな。何が書きたいのかわからない。そんな時はとりあえず言葉をコラージュのようにはり足し、吐き出してみて書き出されたものを眺めてみる。何かを言えたこともあるし、何を言っているのかわからないこともある。どっちにしても文字に起こして可視化してみる。すると面白いことが起こるのです。中身のないスカスカの文章、だめだったら捨てる…つまり粘土なのでつぶしてしまう。それでも可視化した残像だけが残っていく。書いた事は全くの無駄ではない。そもそもこの文章そのものも口からでまかせなので、そんなところかもしれない。当たるも八卦当たらぬも八卦。
もう一つは…削り出すイメージ。これは確か彫刻家が作品を作り出すときの自分の段取りを説明していたものだ。石や木の大きな塊の中に削り出すイメージが見えている。作文で言えば、僕はこう言いたいのだ、と言う気持ちを文章に乗せていく、書きつけて行く。言いたい核心に迫るほどだんだん興奮していく。だって言いたいことが言えそうなんだもんそりゃ興奮するだろ誰だって。後で振り返ってなんでこんなことに興奮したんだろうと思う事もあるにせよだ(まぁまぁなりたての三文文士としては…分(ぶん)もわきまえず好き勝手が言えるわけだ)
なぜ書くか?昔、北杜夫が言ってました、原稿用紙に向かい何かを書きつけると、もうそれだけで仕事をした気になる。僕だってそうだ音声入力して写し出されるスマホの画面…フォント(字面)が綺麗なのでなにがしかの仕事をした気になる。仕事をした気分になるために書く、か。なんか変だな。僕のは別に職業じゃないからな。売文業ではない。アマチュア、甘い。
まてよ、自分自身を見つけようとして読んでいる。自分自身を見つけようとして書いている。どうせ迷子の自分、迷子なりに自分の位置を決めよう、確かめようとしている…自分は座標上のどこにいるのか、これがもしかして僕の今の態度に近いかもしれない。
つまり…ごちゃごちゃ言ってきましたが今日の結論…書いたり読んだりすることは自分の居場所探し。
(書いたり読んだりして自分の居場所探しをしてみた結果…迷子のままでも良い。僕らは迷子のようにしてこの世に出てきて行き着いた場所がどこだかわからない。でも日本を出ていない(物理的に体が外にあるとか内にあるとかと言う意味では無い)日本は、世界有数の森の国、懐が深い。こんな僕でも居場所がある。自分自身無神論者だと言いつつも守られている居場所を感じる。居場所を感じさせるもの、それが日本の国土だ、と言うほど自然との一体感はない。今住んでいる自分の周りの人々だ、と言ってみてもなんか、嘘をつけと言いたくなる位、軽々しい、今いる人が軽々しいと言うわけではない、そういう言い方では一人ひとりの祖先からの重みが加算されていないと言う意味です。
日本の国土(海外派兵で亡くなった方も含めて)で死んでいった何億と言う祖先の連綿と積み重なった人柱と仮に言ってみる、つまり人柱の養分が染み込んだ土壌の上に僕らが生活している、それが文化でありぼくの居場所、ここまで言ってやっと少し落ち着いてくる、世話が焼ける。
自分でもよくわからないこと言ってる自覚があります、ごめんなさい。こういう支離滅裂な言い方が僕は一番落ち着きます、煮え切らない言い方で気分を悪くされた方ごめんなさい、あ最初に断っておこう)
(やっと、このブログ残すところあと、2回です、やってみて良かったとすでに思っています、あと2回よろしくお願いします、今回の動詞と前回の形容詞と合わせたブログを通じて、品詞にかこつけて、自分史にもなるようにすると言うアイディア、グッド、だったなぁと自画自賛したいと思います)
何百年の時を超えて生木の梅を薪としてくべる場面でドキドキするなんて、文字は生きてますね。伝えたい人がいて再現できる人がいる。 土と風景もそうですね、同じ地を踏み同じ空を見る、同じであるわけがないのにそこにある、いる。