10月11日(水) 快晴予報
今日は1年近く前に始めたこの陋屋記の最終回。
最終回に向かって集中して本を読むぞーと思っていましたが…あえなく撃沈。
兄が救急車で運ばれて… 3週間、だそうだ、兄にそう言われてそうか3週間なのか、と思いました。
昨日、兄が転院して、新しいベッドに落ち着いて…僕がねぎらい、兄が兄らしい顔をして、僕に対してすまなさそうな顔をしている。
今後の事態が急転していくことも予感しているのだろう。
その兄が、「3週間…だ」と言った。救急車で運ばれて3週間経ったという意味だとさすがに僕でもすぐわかった。
そうかぁ、3週間経ったか…多分そうなんだろう、、振り返ってみる心の余裕も昨日はやること満載で、なおかつ今も確認する気も起きない。
読まなきゃいけない本…どうしようかなぁ。やはり一応目を通してから次の仕事にかかりたい、、なんちゃって一人前なこと言ってすいません。
でもとりあえずスタートする…それが僕のやり方、今までもそう、これからもそう。
1年間ぐらい日記みたいなものを書けば何かの行動指針ができるかなぁと思ったりしてダラダラと書き始めましたが途中から、小説のネタ探しをしながら読書をしたりするようにもなり、それを今後の暇つぶしにしようと思うようにもなりました。
三百代言といえば、なんちゃって弁護士?の悪口。そう考えれば300と言う数字は嘘800には及ばないまでも多少キリのいい数字。
300回書き続けてはっきりとわかったことがあります。もしこの日記をつけなかったら… 1年を振り返った時…いろいろあったなぁ…あれもやったし、これもやった、あれができなかったけど、、なんて、毎日基本的にはルーティンの繰り返しなのでざっと振り返ればなんとなく忙しくも楽しい、腹立たしくも済んだ事だ…、などが、せいぜいの感想だろう。
でも今回300回の日記をつけたおかげで、一年は決してあっという間ではないことが再確認できました。
今思えば10年前、母との二人三脚の最終コーナーを綴ったブログ…もう残っていないけれど…回転式ロボットゼロ号と暮らす毎日、、あれをつけたおかげで思い出のひとつひとつにきちんとヒダがある。多分それは、人間の顔や身体に刻まれてゆく一つ一つのシワと同じだ。
(※回転式ロボットゼロ号とは母が使っていた一般普及タイプのフランスベッドのスリーモーター付きベッドで、まるでベッド面が回転して大きな座椅子にも食事のテーブル支持台にも、上昇/下降エレベーターにもなるそれに、ふざけて僕がつけたニックネームです。
今思うと僕がこれから描く未来小説に出てきてもおかしくないような機械ですね)
さてと改めて、、日記とは何か…
小説を書くための助走にしようと思っていた節がある。
小説書きを職業にする人は表現したいテーマがあってのめり込める人、しかも読者をあてにしている…そりゃそうだ、出来上がった本を買ってもらってお金をもらう関係上。
プロ、辛い、本当に好きでなければできないか、表現したいことが山ほどある人、辛い仕事なのに辛いと思っている暇がない、多分。
趣味で小説を書く人、アマ、甘い人、僕です。
アマの良いところはプロの人たちより自由度が大きいところかなと思います。ウケて売れることなんかひとつも考える必要がないぶん気楽。
小説を書く事は単なる暇つぶしであると何度も強調しているような気がします。何故か。
それは例えば
未来を良くしてやろうとか、人間をなだめたりすかしたりして人心を操作して(ドライブかけて)何らかの目的を達することとか、勧善懲悪を実現するとか、進歩とは何かを考えてみようとか、進歩の結果として地球上を我が物顔にのし歩いている人間の傲慢を指弾しようとかの目的を事前に決め付けたり、いくつかの目的を達成するための着地点を僕の頭の中にちょっとでも想定したり暗示させたくないからだと思います。使命感とかミッションとかもお呼びじゃないです。
こんなことを改めてごちゃごちゃ言う必要もないのですが、何を書こうとしているのか、本当のところ何かを表現できると思っていて、書くうちにそれが何なのか少しずつ姿を現してくるようなものにしたいからだと思います。
どう決着をつけるのか…どう決着がつくのか…自分で書いていながら…考えながら…わからないところが面白い。僕らは生きている時間が限られているから決着をつけようと思う。そこに、ちょっと無理があるような気がする。
僕は社会であり社会は僕、という仮定もあって、何かを書いて行けば、そこに社会が反映される。
「人間は社会的な動物である」かぎり。(突然何を言い出すんだろう?)
どう社会的であったのかどう社会的に関わろうとしてきたのかも考えたいです。
ペルソナを形作る仮面を1枚1枚脱いでいく。たとえそれが新しい仮面をさらに貼り付けていくことになっても一向に問題ないです。
ざっと口からでまかせに今言った事の実現をあるいはその実験を小説を通してやってみたいのが僕の希望なのかもしれません。
小説に「なっていく」中で、所々「次のきっかけ」が残されていくのではないかなと期待しています…
そのきっかけ…とは、、もしかしたら…僕らが地球上に生成され奇跡的に生き延びてきたことをみんなで寿ぐために、自分の墓銘碑に遺言がわりに刻み付ける文字探し!とでもキザに言っておきます。
もっとも僕に墓など無用ですが。
あ、今思いついたのですが小説を書く事は墓作りなのかもしれない、、ますますバカなことを言い出しできてますね、いいぞ。
小説を書く事は、とてもドキドキする仕事です。はっきりした目的を持たない暇つぶしだからこその、ある意味自由な遊び。
というわけで無理して屁理屈こねくりまわして、わけわけわかんないことしゃべりましたが、、自分の心構えも、とても曖昧なまま小説を書き出します。
実際に書いてみないと今述べたことの着地点はどこに行くのか分からないし、途中で方向転換が行われるかもしれず、めんどくさくなって投げ出してしまうかもしれません。
いずれにしても小説の成り行きは想像がつきません、、では近々スタートします、乞う、ご期待、って、多分どなたも大して期待してらっしゃいませんね(笑)。
小説を展開する上で注意したいことを自分自分自身の戒めとして書き出しておきます
①僕自身は登場人物の性格をある程度知っているわけですが(当たり前)、読む人が、突飛な性格にのけぞってしまわないように、話の流れにある程度の必然性をプラスしていきたいと思います。
②物語の流れとして…淀むような箇所があった場合、、いちどスルーしておいて、データを集めた後で取り繕って行く、つまり後で書き足す。なぜその逆をしないかと言うと、そんなことをしている間に飽きっぽい僕は物語そのものを投げ出してしまう可能性があるからです。
③主人公がある意味スーパーマンみたいになってゆく、なっていかざるを得ない世間との格闘の場面では、登場人物それぞれが「そういう奴いる」「これはわたしかもしれない」「こういう風になってしまうかもしれない」と感情移入がしやすい登場人物のそれぞれの性格の首尾一貫性は守りたいと思います、できるかな?
④この小説作り遊びはミッションは無い。ただ、僕らはこの先、といっても、歴史の上からはほんのちょっと先どうなっているのかな、どうなっていくのかな、というもっともらしい、これもありかなという、ひとつのシーンが見られれば僕は満足です。
そもそもこの小説は作りとしては未来小説なので、未来が現実になる頃は僕はこの世にいませんので、死んだ後の事なんか責任が持てるわけがないので気が楽です、あはは。
新しくこのコーナーで始まるフォーラムのタイトルを決めました…とりあえず…
未来小説創作メモ📝 で、いいかな。
過去から描き出すのに未来小説?
未来を思い出すために過去を書く、と言ってみる。意味はない…ただ言ってみただけ。言ってみて、改めてその意味を考えてみる、これを実験と言う。
僕らは繰り返している。繰り返しながら何かに向かってる。
過去は消すことができないけど、小説なら過去を生きることができる。手がかりも未来より多い。
そこから始めなければ未来も始まらない、未来なんてどう描いていいのかわからないから、手がかりが多い過去から始めようとしているのかもしれない、きっとそうだ。
そうかどうか…書き出すしかない。
紙芝居をやっていた僕の父の口調で言ってみます…と思ったら言葉が浮かばない、多分ぐずぐず言わない、いきなり始める、紙芝居のはじまりは…ドラマチックでなければ…子供もついてこない。
(じゃぁ始めるか、、)、、、
冬寝床秋の終わりは冬はじめ
とうとう最終回。何事にも終わりはありますが、寂しいですね。でも「さよならだけが人生」ではありませんよね。300回というと10カ月分、このフォーラムも日記文学のジャンルに入るでしょうか。
ちょうど10年前の、あれは11月だったと記憶していますが、回転式ロボットゼロ号と暮らす毎日のブログをかちねっとで初めて拝見しました。そこに活動範囲半径○○メートルってサブタイトルが付いていましたっけ。記録ってやっぱり大事。
日記形式と言えば、昔「蜻蛉日記」の抜粋を読んでそこに書かれている不満というか鬱屈というか、愚痴・恨みに辟易して、いや、自分も日記なんか書いているとこんな女になりそう、と恐れをなしたものでした。
日記文学は別に日本独特のものではなく、英国では17世紀の「サミュエル・ピープスの日記」が有名ですが(これはよく批評家などに引用されるけど、私は直接読んだことはありません)、やっぱり日本のお家芸じゃないかと思います。ちょっと調べたところでは、ロナルド・キーンなどもそう言っています。
<ドナルド・キーンは『百代の過客ー日記にみる日本人ー』の序文で、戦場に遺棄された日本兵の日記を翻訳する職務の経験から達せられた結論の一つは、「日記を付けるという行為が、日本の伝統の中にあまりにも確固たる地位を占めている」という。>
戦場で日記をつける日本兵・・・想像しただけで涙がこぼれそう。でも平和日本でも、歌の台詞じゃないけれど「男はみんな傷を負った戦士」、いちまるさん兄弟も戦いはまだ終わっていない。何らかの形で日記はこれからも続けて下さい。