9月6日(水) やや曇り予報
昨日からビールはやめて日本酒に切り替えです。ちょっとほっとします。
四つ木御殿が草ボーボー。といっても狭い範囲なのでちょっと手入れすればきれいになります。
10年近く前に作った巣箱図書館が玄関ドア前に健在です。これを少し高い位置に直して、手芸教室だのパステル教室だの料理教室のそれぞれの看板を下のほうにぶら下げることにしました。そうすればなんとなく雰囲気が出る。
裏のイトーヨーカ堂は僕にとって遊園地みたいなものになりました。なんたって裏口から出入りしているのでそれだけで面白いです。10時開店を待って中に入ると店員さん達が昔のデパートみたいにあいさつしてくれます。
探検は始まったばかり。昔で言うところの百貨店ですから品物はいっぱいありますし、昨日はアウトレットと称する地下1階のコーナーで売れ残り保存食品を買いました。
あらかじめ入金しておいたカード1枚あればお金を持ち歩かなくても良いので楽です。レジに並んでいても若い人の決済が見られるので面白いです。支払う方の人はスマホに決済画面を出しそれを店員さんが手持ちの読み取り機?で読み取っておしまい。
そろそろこの陋屋記とりあえずまとめて、小説記?にうまいことスイッチしなければなりません。数少ない貴重な読者に少なくともそっぽを向かれないように昔話や将来の話を作っていくわけですが、それより何より僕自身がその作業を楽しめなくては本末転倒です、、って、早速読者無視でごめんなさい。ま、楽しい悩みの部類です。
今日はお昼過ぎに、人が訪ねて来ます。購入した補聴器の説明に来てくれる方です。ほんのちょっと人の話が聞こえるようになれば良いのですが、それほど期待していません。
とは言うものの話したいときに話したい人と少し話ができればとてもうれしい。
後は…あー、あの人は耳の遠い人、と、それなりに身近な人たちに認知してもらえば気が楽ってもんです。
ぼーっとしてれば暇だし、それなりに行動すれば忙しい、それを放っておいてくれる世間に感謝あるのみです。
世間という言葉は子供の頃に結構聞かされ、それが「世間は許さない」とか「世間が笑う」などというネガティブな文脈だったので、世間嫌いになりました。母親など、私が自分の思う通りにならないとすぐに「あんたは世間のはみ出し者だ」などという。勝手に人をはみ出す世間なんか私の敵だ、と思ったくらい。つまり世間のイメージは最悪だったので、大人になってからは「世間ってそんなにひどいところでもないじゃない」とプラスの評価になったほど。
世の中に出てからのことですが、友人たちと話していて、自分の母が何かというと「世間」を盾に娘を非難する、と言ったら、スペイン語やフランス語では「世界が・・・」という表現をするのだと教えられました。「世界が彼らに呆れている」とか。「社会が・・・」って言う表現より可愛げがあるような気がしませんか。
これも子供の頃からの経験に基づくのですが、社会主義者と称する人ってやたら「正義」に捉われていて、おっしゃることはその通りで、でも笑いやユーモアがないので、彼らを好きになれませんでした。だから「社会」と言われると反感があるけど(社会の一員として、とか、社会のために尽くすべし、とか)、それを「世界」と言い換えて大風呂敷を広げられると、その中にだいたいは何でも入れられるみたいで適当感があってこっちも楽になります。つまり、何となくお説教や訓戒めいたニュアンスのある「社会の一員」に代わって「世界の一員」といわれた場合には拘束されているような気がまったくしない。そりゃそうよね、半分ジョークみたいだもの。
そうか、それでドイツの新聞にも世界を意味するディ・ヴェルトというのがあり、フランスでもズバリ世界の新聞、ル・モンド紙があるんですね。あれは要するに世間新聞ってわけかあ。今頃納得です。