8月30日(水) 快晴予報
それにしても明日で終わる8月は…長かった。
姉のこと姉の長男姉の長女との十数年のしがらみの気持ちを解いた夏休み、だったせいかもしれません。
8月を振り返りグループLINEに載せた、五七五並べ、一部再録します、時系列順不同ご勘弁。
(※KBCのグループLINEで五七五の俳句遊びに参加しませんか?僕もだいぶ慣れてきました。慣れれば面白いです、ぜひ気楽にご参加ください、それと、ぼくはKBCホームページの俳句ブログ、春硯さんの「風信」のファンです)
消し忘れ残った雲の夏あした
もっくもく天突く雲の空いっぱい
スコールに逃げる術なし竿の服
通り雨洗濯物にシャワーかな
雨宿り夏行き過ぎる人の列
夕されば夏が惜しいぞ秋気配
朝陽来る秋もそこまで夏座敷
暑いのなんのと申しましても…秋が来ればくるで…夏が終わっちゃって寂しいな…なぞと申しますのが世間てえものでまことに勝手なものでございます、、(落語のまくら)
入り日落つ追って行きたし夏夕べ
酷暑干しミミズ朝餉の雀かな
鉄塔に雲の影さす夏の朝
高層のビルの灯夏の夜半
夜中、物干しに出てみると西側の大きなマンションの各階を明るく照らす外灯がこちらの物干しまで光を届けている。あっ、僕は都会に暮らしているのだと思い出す。
長息をひとつつきます夏朝餉
握り飯焼いて香ばし夏夕べ
大粒の雨に打たれるたびに、その都度植え込みの花々が忙しくお辞儀を繰り返している
スコールに数多小菊は首傾げ
雨が上がれば向こうを歩くまぶしい二人
雨上がり手結ぶ二人夏の空
蒸す夜に戸を開け仰ぐ朧月
さるまたに濡れタオル肩大団扇
訪問客まれな陋屋住まいはこれに限ります😅
雲が峰拳の如し夏は今
拳を並べたような入道雲がそれぞれてっぺんを日に照らされて大理石の輝きででかいツラをしていました
天高く鱗雲が広がっています、秋を思い出しました
陋屋に秋風吹けや夏に飽く😅
驟雨去りニンニク炒め風香る
川風にカモメ揺られて夕涼み
川風に故人と一緒夕涼み
カーテンがまるで呼吸しているようにゆったりと風を揺らしているように僕には見えました
カーテンが風揺らしてる夏の朝
(さらば八月また来年)
昨日メガネなしで根性で読んでた本、冗談↓図書館のリサイクル本
生きることの意味:田中美知太郎著:学術出版会2010年3月初版第1刷
77ページ弁解について
の項 が面白かった。かいつまんで言うと…黙りこくらないで、弁解したほうが面白いという説です。言い逃れ、弱み隠し、強弁などもお互いにレトリックを使って言い分を積み重ねていく中で、ごまかし、嘘、はぐらかしは、追いやられ、真実はおのずと浮かび上がってくる、、というような説だと思います。
これはとても大事なことを言っていると思います。
西洋人はギリシャの弁論術に源を持つこの考え方を自然に身に付けているのではないかと思いました。
言わぬが花、沈黙は金、みたいな腹芸は不要、、ということを言っているのではないと思います。
むしろ腹芸をやったところでばれる、ばらす、ためにお互い弁解し続ける。結果、ごまかし、目くらましを排除し、真実に近づいていく。
とても力づけられる説だなぁと思いました、基本的に人間を信頼する合意がある思いました。
以心伝心、目は口ほどにものをいい、、はい、それは恋人同士の間でだけのことにしてください😜
(お父さんはなぜ頭が禿げてるの?
毎日成長しているからだよ
つまり、、草(髪の毛)を分けて成長をしているから、、というジョークを思い出しました。
長いと感じた今年の8月、ほんのちょっとだけ成長できた自覚がある)
夕涼み。懐かしい言葉です。私が小さな子供だったころ、わが家には「涼み台」というのがありました。日本の田舎独特の風習だったのかな、と思って調べると「涼み台」はちゃんと辞書にもあって、写真まで。(わが家のはこれより大きかった。)
昔はテレビなどなくラジオだって贅沢品だったし、扇風機(これも高価だった)もない屋内では暑すぎるので、夕方になると涼み台を出して外で涼むのですが、大きな腰掛け台だから四方にみんな座れて近所の人も団扇をもってやって来る。
今は介護施設に入っている今年98歳の婦人も近くに住んでいて、うちの辺りには子供も大人も女性に比べて男性が少なかったため(戦死者もいたし抑留者も)長男だった父は若い女性から「お兄ちゃん」と呼ばれていたのですが、そのご近所の女性が父の死後「お兄ちゃんがね、夕涼みをしながらこんなこと言っていたのよ」といろんな思い出話を聞かせてくれました。私は多分3、4歳だったので記憶にないのですが、かすかにその夕涼みの様子を覚えています。情報交換や不満・愚痴のはけ口の場であり、お説教の機会でもあったのですね。
田中美知太郎は、若いとき何かこの人の本を読んだことがあるけれど何だったか思い出せません。ギリシアの古典と言えば、私が読んだのは圧倒的に松平千秋訳のものが多い。ホメロスの「イリアス」も、クセノポンの「アナバシス」も、ヘロドトスの「歴史」もこの人の翻訳。イリアスは詩なので、その良さがよく分からず筋だけを追っていました。「歴史」は面白かった、私が世界史に興味を持つ一つのきっかけになったようです。「アナバシス」は日本のわが家に二冊あるので(どちらもしっかりしたハードカバー)、欲しい方には差し上げます。
論理的思考とか討論の訓練などはギリシアで生まれて、西洋文明はそこから羽ばたき、今に至るまで西洋人はその恩恵を受けていると言われますが、日本は160年前にその西洋文明の導入と模倣に懸命になったにもかかわらず、論理的な思考は今も苦手っぽく、討論に至っては大方は避けまくり、参加する面々も冷静に本来の討論の王道を踏襲している人は少ないように思えます。
子供の頃、周りのオッサン・オバサンは、私のような者が抗弁しようとすると、即座に「理屈をいうな!」と怒るのが常だった。こうやって当時は子供の議論・反論の能力の芽を摘んでいたんですね。
数日前の新聞に、今の子供は口論になると「はい、論破」とか「それはあなたの感想でしょ」などと言って相手の口を封じるという記事が出ていました。これは由々しき事態です。その種の発言・暴言は議論の根本的なルールに反するということを大人はきちんと「論理立てて」教えないと。