8月9日(水) 曇り予報
夜中目を覚まし、狭い物干しに出た
※蒸す夜に戸を開け仰ぐ朧月
朝食後ジムに出かけたら、10日までプールは休み。見上げると見事な入道雲
※雲が峰拳の如し夏盛り
拳を並べたような入道雲が大理石の輝きを戴いて、でかいツラをしていました
家に戻って読書。
※さるまたに濡れタオル肩大団扇
のスタイルです。訪問客まれな陋屋住まいはこれに限ります😅
(古今和歌集 新古今和歌集(日本の古典をよむ):小学館2008年9月第1版第1刷発行)の昨日の続きを読み進めました。
新古今集
204ページ:西行法師
小山田の庵近く鳴く鹿の音におどろかされておどろかすかな
(あはは意外とおちゃめ🤣)
230ページ:小野小町
あるはなくなきは数添ふ世の中にあはれいづれの日まで嘆かん
(生きている人はなくなり、その数は増すばかり、私はいつまで嘆くのかしら:私訳=うん、みんな同じさ、送順送り)
275ページ:慈覚大師
おほかたに過ぐる月日をながめしはわが身に年の積るなりけり
(ぼーっとして過ごしているうちにもしっかり年をとってゆく:私訳=あっという間のようで意外に長い)
恋の歌に注目してみる。男が女を歌い、女が男を歌う。
古今和歌集と新古今和歌集の間には300年という時が流れている。
恋の歌は健在だ。
新古今和歌集と僕らとのあいだには800年の時が流れている。恋の歌は健在か?
男は女の持ち物ではないし、女は男の持ち物ではない、ましてや、いずれの乗り物でもない。わかっちゃいるけど勘違い。800年の経年変化。勘違いの分だけ恋の質が変わった、と言ってみる。800年の間に変わった恋の質。本当にそうかどうか…自作小説で確かめてみます!ダテに恋の歌が千年前後の時を経て今に伝わっているわけではない(大きなことを言っておかないと小さなことすら実行できない)
今日はさらに時代をさかのぼって白川静の万葉論読みます。
鹿の鳴き声って、亭主の田舎の家でときどき聞くんですよ。先日も夜中、というかもう3時頃だったと思うけど、シャッ・シャッていう声がする。いや、これは鳥じゃないな、第一夜啼く鳥は梟などに限られるし、と思ってスマホで鹿の声を出して見たら、当たり。だけど鹿鳴館なんていうからどんなに華やかでゆかしい鳴き声かと思ったら、実に詰まらん声でした。
秋山の紅葉踏みわけなく鹿の、って歌、有名ですけど、真夏から鹿は鳴いていますぞ。歌や詩にはずいぶんウソッパチがありますよね。これをpoetic licenceとか言って、詩の美しい、あるいは立派な、仕上がりのためには少々怪しげなことを書いても許されるんですって。
なんていい加減なことを言っちゃいけないと調べたら、
The term "poetic licence" is usde to describe an intentional departure from the facts or traditional stuructures of language when writing.
と説明されていました。平安時代(鎌倉時代も)の歌人って、このライセンスを遺憾なく駆使したわけね。事実と違う、なんて異議を唱えるのは野暮なのね。百人一首などで、ポエティック・ライセンスが使われている箇所を指摘せよ、なんて問題を出したら面白そう。