7月5日(水) 曇り時々晴れ予報最高気温が27度とあるのでしのぎやすいかもしれない。
ふと…「環境」を持ち歩くという言葉が思い浮かびました。
昔仙台で仕事をしている頃…仙台一の繁華街で大きな酒屋を営んでいた社長さんが引退して、あるご縁でその方の車に同乗することがあり、道中、少し話こむことにもなりました、、いろいろ話が出た中で印象に残る話があります。
その方がおっしゃるには…
東京へ車を運転して出張する時、車の中だけは日常の細々したいろいろな心配事ことも忘れられて、しかも書斎にでも居るような気分になれるので長時間運転も気にならない、とても平和な気持ちをキープできる、との事でした。僕は、それを聞いて、、失礼にも、車の中だけが自分の居場所なのかな、なんて皮肉な見方をしていました。
僕が今突然この話を思い出したのには訳があります。スマホ、と、車の同定です。
ちょっと強引かもしれませんが、どちらも「環境」を持ち歩いているのではないかと、ちらっと思ったのです。
環境を持ち歩くことの安心感。
スマホは、僕にとって百科事典、小説のネタ帳、日記帳、漢和辞典、英和辞典、和英辞典、辞書、TODOメモ、予定表、文通用具、地図帳、電話、筆記具、電話帳、各種カード、おまけにテレビやラジオのアプリまで使えば、スマホを携帯して歩いていれば、どこにいても、まるで書斎に居ながらにして、出歩かなくてもかなりの用が済んでゆきます。手回しよく好みの情報を集めてくれるという意味では優秀な秘書がいるようなものですね。
僕らはスマホを手にしたことで新しい環境を手に入れた。生まれ育った風土が人間を育むように手の中に収まる環境が次々に、個別にに上書きされていく、自分だけのカスタマイズ。しかも世代を問わず誰もが身に付け持ち歩く環境、それは一体どういう意味を持つのか。
これから10年後には多分そんなことすら話題にならない…それは僕らが環境に馴染んだ証拠…結果個性が際立つのか、あるいは個性は埋没していくのか、選んだ、あるいは選ばされた環境に異議申し立てはできるのか?次の世代の人たちの課題…ハハハ。
環境という言葉で私が真っ先に思い浮かべるのは、オルテガの「私は私とその環境である」という言葉です。いやでも環境の影響を受けて生まれ育ち暮らしているわけで、それは祝福ではなく呪いのように感じることもあるけれど、運命だから仕方ないと思っています。
運命なんて言葉、今は古すぎて誰も使わない。でも運命があるから、文学も哲学も生まれたのではないでしょうか。例えば、ギリシア悲劇から運命を取ったら、さあ、何が残る?