5月27日(土) やや曇り予報
昨日の朝、前の晩のおかずの残りで朝食を済ませた。その後太極拳のビデオを見てそれから太極拳のテキストの文章を読み所作の一つ一つの意味を確認していく、、ほんの短い間の作業?ですがこれを当分の習慣としています。非力な者でも防御しながら、かつ相手の攻撃をも反発に用いて最大限の力を使う工夫が少しずつわかって面白くなってきました♪
お昼近く30分ぐらいかけて歩いてことりカフェさんへ食事に行きました。毎回工夫がこらされた食事をいただきながらの1時間ぐらいの滞在の間、外の景色を飽かすことなく眺めていました。
横断歩道渡る人たちを眺めているだけで楽しいです。
僕と同年輩の男性が僕と同じようにゆっくりと往来を歩いています。歩き方から察するに僕と同じように幸せそうに見えました。たくさん働いてきた人だと思いました。
また、年配の男性が自転車にまたがったまま信号待ちをしていました。自転車のハンドルを握る左手が窓からよく見えます。僕はその手を頭の中でスケッチしました。美しいと思いました。
信号の向こうでやはり信号待ちをしている女の子とお母さんの親子が見えます。女の子は白い上張りを両手で引っ張ったりあげたりスキップしそうな、小踊りしそうな感じでお母さんにまとわりついていました…あの子は今始まったばかりの世界が面白くてしょうがないんだろうなぁと想像してとても愉快になりました。
午後は、「デジタルキッズ」(ネット社会の子育て):坂本旬著:旬報社2007年5月初版第1刷発行
を読んでいました。
最後のほうのページから引用いたします
176〜 178ページ…子どもの世界にファンタジーをとりもどす
子どもの世界にファンタジーをとりもどすことは、子どもの豊かな成長のために欠かすことができません。ファンタジーとは「想像力が導く世界」です。子どもたちはファンタジーが大好きですが、ファンタジーを楽しむことを通じて、想像力を養っていくのです。豊かな想像力を身につけることで、確かな現実世界への渡りができるようになります。この渡りが親密空間から公共空間への渡りも可能にするのです。…中略…
想像力は親密空間の中ではぐくまれ、公共空間で市民の力として結実していきます。豊かな想像力は他者の生活を思い浮かべ、他者の立場に立って考え、喜びや悲しみを共有する力になります。それは単なる「生きる力」ではなく「ともに生きる力」なのです。
この力を持っていれば、遠く離れていても響きあうことができます。コミニケーションとは情報を他者に伝えることではなく、情報を通じて互いに共鳴し合い、響きあうことです。その共鳴を支える力が他者を思う想像力なのです。
今日もっとも大きな問題は、そのような想像力を子どもたちに培うための家庭力や地域力が急速に衰えつつあることです。子どもに昔話をする老人はいなくなり、公園で子どもたちが紙芝居を楽しむ姿も見なくなりました。そして何よりも、子供が自分たちの想像世界をつくり上げるべき遊び場や自然環境が失われつつあります。おとな社会は、子どもたちが豊かな想像の世界を楽しまなくてはならない大切な時代を奪い取ってしまったのです。…中略…
いますぐできることは、言葉を通した想像の世界を楽しむ方法を子どもたちに伝えることです。「物語る」ことがそれを可能にします。そして、豊かな本の世界が子どもたちの心の中に、確かな自分をつくり出します。
子どもたちを図書館に連れて行くこと、
学校の図書室をいつも子どもが楽しく集まる場所に変えること、
勉強のための読書ではなく、読書そのものの楽しさを教えること、
想像の世界を演じる楽しさをともに感じること、
できる事はたくさんあります。
そのためにこそ、新しいメディアを使いこなさなくてはならないのです。
引用以上
(現在では新しいメディアの代表の1つがケータイであることはいうまでもありませんよね)
夕方、中天の上限の月を見ていて、ちょっとめまいが、、と思ったら電線を揺らす地震でした
夕月や地震に揺れる皐月空
一昔前まで、コミュニケーションなんて言葉はなかったですね。お喋りはあったけど。子供の頃、母とその姉妹たちのお喋りを聞いていて、中身は「悪口」「不平」「自慢」しかないことに気づき、親戚付合いがほとほと厭になったことがありました。やはり当時の教育レベルの低さによるのでしょう。学校教育ではなく、家庭での親のしつけや指導がなってなかったし、世間がそれを許したのだと思います。そして、恐ろしいことに、世の中が進んで女性の可能性や自己実現のチャンスが言われるようになっても、母の世代の女たちの蒙昧は変わりませんでした。彼女たちより1世代後に生まれたことは、本当に幸運だったと思います。