5月25日(木) いちにち曇り予報
昨日は1日これぞ爽やかな5月と言いたい位快適でした。午後から「心を持つロボット」の続きを読みました。この1冊の本のヒントで1つの小説ができるなと思いました、登場人物にこの仮説を生きてもらえばいい。
認知+行動が意識を作るいう仮説です
167ページ
これらの例が示すように、「行動や認識」と「意識」という言葉は相互に機能を強め合うように使われているのです。
そこで私は「行動や認識」と「意識」の不思議な関係に気づいたのです。この不思議な関係を、言葉で表現できないものかと私は考えたのです。
そのとき、頭の中に浮かんだ言葉が、「認知と行動の一貫性が意識の源泉である(The consistency of cognition and behavior is the origin of human consciousness.)」というフレーズでした。ここで、認識を認知といい変えましたが、この方がなぜかピッタリときたからです。すなわち「認知と行動の一貫性」が「意識」発生の基盤になっているという意味です。
このように「意識」という現象をとらえると、非常にわかりやすくなるのです。例えば、「意識すること」とは「行っていることが理解されていること」といえますが、これは私たちが「やっていることをわかっている」という表現と同じです。また、「考えていることは行っていることと同じ」ともいえます。これは「頭の中である行動を考えると、あたかも身体が実際に行動するように感じること」といえます。
私は、「意識」に「行動と認知」との奇妙な関係を感じたのです。この考えから、「認知と行動の一貫性」を実現できれば「意識」を生み出すことができるかもしれないと思いついたのです。
引用以上
「言葉を」生きている、そういう言葉が浮かびました。この本を読みながらそんな言葉が思い浮かんだのです。「言葉で」生きていると言っても良い。一例をあげれば…というよりは「何かを言ってみる」たったそれだけのことで自分との対話が始まる。僕らはそういう装置なのだと考えてみる。例えばこんな風に言ってみる(言葉の一人歩き)↓
民主的という言葉は怖い。方向がずれていく怖さだ。方向には何らかの意図がある。それを徹底的に疑わなければ人間の未来はない、と、さらに言ってみる。
意図の出所が人間であろうとAIではあろうと同じこと。人間の性向にドライブをかけようという意図が働いたとき僕らはうかうかとそれに乗ってしまうような気がする。あたかもそう行動することが自分の判断であるかのごとく。
「リアル」は情報が多過ぎる。AIのフィルターを通したときすっきりと、まるでキレの良いビールのような味付けで情報提供されたら誰だってふらっとかたむくような気がする、美男美女に瞳を見つめながら理路整然とささやかれてクラクラしない方がよっぽどおかしい。
極端なことを言えば、憎悪、嫌悪、違和感を、正義の名のもとに快適、快感、爽快感に変更できるソフトウェアだってこれからできていくかもしれない。頑なな心を段階的に宥和したり親和させる柔らかい権力を一体誰がコントロールするんだろう。そう、僕らはもうそういうとんでもない時代に突入していると思う。
つまり僕らが何を嫌がり何を好み今この瞬間何を1番望んでいるかが全て手に取るようにわかる時代に突入していて、何を考えるように仕向け何を考えないように仕向けることさえできる世の中の真っ只中に誰もが立たされている。
AIに親和性のある人間作りはすでに始まっている。僕がLINEを通じて自分仕様の世間作りをしている行動もそれにつながっているのではないかと本性が懐疑派である僕は疑ぐり始めました、、
ほらね、これらの文章あながち意味がないとは言えないでしょ。糊と理屈は何にでもつく(ロシアのことわざ)
さてさて、調子乗って、多分誰でも思いつくこんなショートストーリーまで作ってみました…
タイトル:「恋愛指南ロボット」または「恋は盲目は通用しません」
太郎は花子に恋をした
太郎は恋愛のいろはについて恋愛指南ロボットの太助🤖にいつも相談している。レッスンの甲斐あって花子との恋が成就するべき2050年の5月の夕暮れ、結局太郎と花子の恋はレッスンの甲斐なくおじゃんになった。
真相を「知っている」のはAIロボットの太助だけであった🤭
恋の成就「だけ」を目的に太郎の相談に乗っていた太助であったのだが、その過程において太郎の人間的な欠陥を太助は「直感」してしまった。つまりその… AIロボット太助としての気持ちは太郎に置いてきぼりを食らったしまったからだ。単なる、ロボットへの気働き不足なのだが気働き、「思いやり」こそが人間を人間たらしめている、と太助は太郎とのやりとりの中で学習したのでした。そしてそのことを太郎に教えるプログラム(それをどうやって伝えるかのデータ不足)再構築時間が太助には不足していた、よしんば間に合ったとして、それを伝えても、今現在の太郎には、それを受け入れる準備がない、意識のタメ(溜)スペースが不足している。それを「直感」した太助は提案を保留にし、お相手の花子は「なんとなく」面白くない人、太郎を袖にした、というわけ、花子に言わせれば…太郎は手の握り方が下手、寿司屋じゃあるまいし握り方なんかどうでもいいじゃん(太郎)チャンチャンおしまい。人間がAIに腹の底まで読まれて、「同情」される、という、理屈っぽいダサイストーリーでした。
(昨日近くの店をGoogle マップで調べていたらどこそこの店は今あまり混んでません…なんて文字列が出てきた、、てくてく歩いてい行ってみたら、混んでいてがっくりなんてこともこれからは少なくなるだろう。裏返して考えてみれば「がっくりする自由」「危険に立ち向かう自由」「何もしないでぼーっとしている自由」なんてのも早晩、脅かされてくるかも知れませんね…あはは)
私はポピュリストという言葉が批判的に使われるようになり、「大衆迎合主義」などと訳され、ドイツなどで民主主義の敵みたいなことを言われるようになってから、ずっと変だと思っていました。
そもそもdemocracyの語源はギリシア語のdemos(人民、民衆、大衆を意味する)で、要するに民意を最重視するということですが、それなら当然民衆に媚びたり迎合したりせざるを得ないでしょう。
一方、populismという語の元はラテン語のpopulusでこれまた人民・大衆を意味する。つまり、ギリシア語とラテン語の違いだけで意味は同じなので、なぜデモクラシーが高尚でポピュリズム(これは人民主義と訳すべき)が堕落しているのか、さっぱり分かりません。
どっちにしても、民衆・人民を相手にする限り、彼らのご機嫌を損ねたら政治家になれないというのは自明です。だから宥めすかしたり、気に入られるような言動をとったりせざるを得ない。それが民主主義の宿命ではないでしょうか。