5月20日(土) 曇り予報
道の片側に寄って、てくてく歩く。目的地に着くまで時間はかかるもののだんだん気にならなくなってきました。てくてく歩いて行くのが僕の生活なのだから。てくてく歩くことが僕の贅沢、安上がり。
子供が親御さんと一緒にてくてく歩くときの嬉しそうな顔、見ているこちらまでが楽しくなる。なんであんなにうれしそうなんだろう?訳も分からずよりうれしいのだと思う。いや、待てよ、、もしかしたら意識しないだけでわかっているのかもしれない、わかっている事は振り返ってみれば二度とはないその瞬間とその時間。
僕はその追体験をしていると思えばこれまた愉快。
昨日お昼頃あそうだ冷やし中華最後に食べたのいつだっけと思い出しシマダヤの冷やし中華とかまだ売ってんのかなあとか思いながらふと手近にあった本を取り上げた。
てくてく歩きに関するくだりがありましたので引用いたします
「行くぞ冷麺探検隊」:東海林さだお著:文春文庫1999年1月第1刷
180 〜190ページ(サファリ・イン・アフリカ(2))
そうした土と埃と草の風景の中から、突然人が現れる。
赤や黄色の原色を身にまとったケニア人が、ふいに現れて国道沿いを歩いていく。
向こうから一人、ふいに横から一人、追い抜いた人が一人、国道沿いをテクテク歩いて行く。
見渡すかぎり何もないところから現れて、何もないところへ向かって歩いていく。
どこから来てどこへ歩いていくのか。
男もいれば女もいる。
セーターの人もいれば、背広の上着にノリのきいたワイシャツ、ネクタイという人もいる。
ほとんどの人が手ぶらで、淡々と歩いていく。
ケニア人は背が高く、足が長く、頭は小さく、体が細い。
そうした人々が、いかにもしなやかな足どりで、正確で均等な歩幅で、均等な速度で、着実に前進していく。
数人連れというのもいるが、1人が圧倒的に多い。
今回のアフリカ旅行で、何が一番印象に残ったかというと、この「歩く人々」だ。
土褐色の風景の中を、原色を身にまとって淡々と歩いていく人たち。
歩いている人が、風景そのものとなって記憶に残っている。
この辺のケニアの人たちは、テレビもラジオもない。新聞も雑誌もない。
むろん電話もないし自動車もないし、自転車さえ持っている人は極めて少ない。
だから、離れた地区に用事ができると、その用事は歩くことによってしか達成されない。
別の集落にいる知人、あるいは親戚の消息を知ろうと思えば、歩いて行って会うよりほかは無い。
「元気?」
などという単純な会話といえども、歩いて行って会って「元気?」とたずねなければならない。
「歩く人々」は、そうした用事を持つ人々なのだ。
はるか彼方の集落から、はるか彼方の集落へ、何時間でもかけて歩いて行くのだ。
半日かかっても歩いて行くのだ。
この辺の人々は、何をするにしても、とりあえず歩くことから始めなければならない。
数分で終る用事であっても、半日かかる場所ならば半日かけて歩いていく。
「つまりだねえ、この辺の人は、人生の大半を歩いていることになるんだよねえ」
とサンペイさんが解説する。
引用以上。
とまぁ歩くことは生きることであるという僕の推論はある意味ほぼ正しかったわけです…あはは。
昨晩は、去年から行こうと思っていた歯医者さんへ事前に予約を取り出かけていった。食事をしている時よくものがはさまるので何か詰め物をしてもらうためでした。人間でよかったです、他の動物だったらこんなことぐらいでなかなか直してもらえません。昨日はガリガリ歯🦷を削って形を取ったので次回は出来上がったその形をはめてくれることになると思います♪
太極拳の形(カタ)の一つ一つの意味をテキストで確認するようにしています。左右の足の重心のかけ方、腕の自然な湾曲の保持、手のひらの返し…相手の攻撃を避けると同時に防御しつつ損傷を少なく攻撃に転ずる所作だと想像できます。所作の意味がわかれば仮想敵の姿が絡んでくるので一人芝居や舞踊にならずにすみます。
「人生の歩み」なんて人は言うけど、これは単なる比喩ではない、ということですね。となると、歩けないということは実に不便で残念なことですね。
私も、車の運転はできない、自転車にはろくに乗れない、という理由で若いときから「歩く派」ですが、日独ともに周囲には歩くのが嫌いな人が多く、「運動不足になるよ」と忠告すると、「ジムに通っているから」「ゴルフをするから」大丈夫、などという。歩くのはタダなのに、変な人たちです。