2月 8日(水)曇り
冬ごもりなしの冬…だったなぁと今振り返っています。A地点からB 地点へ移動するだけなのに、埃だらけ。古い家は叩けば埃が出る、当たり前。僕のフィールドワークでした。これから微調整をゆっくりやっていくことになります、あ、それが暮らし…かも、と今気が付きました。僕の場合いわゆる一般的な「暮らし」がどういうものかいまだによく分からないので何とも言えませんが…強引に何か言ってみるとすれば…安宿の暮らし、飲食と寝ることができれば後は自由時間、まぁ旅の暮らしが僕の暮らしといったところです、ひとり合点。僕が旅行にあまり興味がないのもそもそも僕が旅の途中だからだといま分りました。そんなある意味わがままでぜいたくな暮らしが成り立つのか成り立たないのかそんな問題ではない、これが多分僕の生き方なのだと思いました、あはは🤣
ときは春春夏秋冬今が旅
(ところで、、びすこさんが、コメントで…辺見庸が故郷は頭の中にあるという話…啄木が、、ふるさとは遠きにありて思うもの、と歌い、辺見庸のダメ押しのようなコメント、、言われっぱなしは悔しいので…
故郷は母の子宮の春の水
人はだれでも、というか母親が飢餓状態にでもない限り母の羊水の中の全き幸福を知って生まれてくる)
私の同胞(はらから)でなく、父のそれですが、祖母は二人の女の子を亡くしています。一人は死んだ状態でこの世に生まれ、もう一人は何とか出て来たもののすぐ死亡。
墓地にその小さな小さな墓があって、わが家私有の墓地は芋畑と甘蔗畑(サトウキビ畑)の近くなので、戦後私が幼い頃食糧不足を補うために農業をしていた父母について行って、よく一人で遊んだものでした。それを思い出しながらの句。
・夭折の子並びゐて秋の墓
・母の胎に命忘れて展墓待つ
展墓・墓参りは秋の季語なのですが、芋掘りは秋だし、サトウキビ収穫は晩秋なので、季語通りです。
季語といえば、四季ではなく新年を別に扱うようですね。また、日本は春と夏の間に梅雨という季節があるという人もいます。だとすると、童謡の「夏は来ぬ」(作詞は歌人の佐々木信綱)なんか、「梅雨は来ぬ」ということになるんじゃないかな。だって、五月雨の注ぐ山田とか皐月闇とか、これはどうみたって梅雨の時期ですよ。
無季語俳句・自由俳句を主張する人もいますが、やはり虚子のいうように17文字と季語という枠組みがある方が、俳句として端正な佇まいになるような気がします。でないと、ただの標語みたいになる。それはそれで面白いかもしれませんけれど。
先日読んだ本に都々逸が出ていて、あ、そういうのがあったな、と思い出しました。これは7・7・7・5なんですね。「○○殺すにゃ刃物はいらぬ、△△があればいい」ってやつ。あ、もっとおかしいのが。「頭禿げても浮気はやまぬ 止まぬはずだよ先がない」ですって。都々逸って江戸の下町の歌って感じで、三味線の音が聞こえて来そう。