2月 4日(土)曇り
酒なくてなんのおのれの桜かな、、若い時は何てキザなセリフだと思いましたが、今また酒をやりだしてから納得するところもあります。思い出が酒の肴になるということの上に成り立つ、なんのおのれのさくらかな、です。
昔僕の上司が…仕事が終わったらその仕事をゆっくり振り返らなければだめですよ…(てやんでぃ!=なに言ってやがる)、とこねえちゃん酒もってこい=早いとこねえちゃん、、😤)聞き流していたセリフを今となってはなるほどなぁと思います。余計なお世話ですが現役の人たちに…同じセリフを言いたいですが今のスピード時代の現実はもっと厳しいだろうなと同情するばかりです。
僕のおばあちゃんが日がな一日長火鉢(夏でも)を前にして茶箪笥を横に置き、何をするでもなく座っていたことをよく思い出します。今やっと何をしていたか想像がつきます。明治21年生まれのおばあちゃんは江戸から明治に変わってわずか20年後に生まれました。10人近くの姉妹弟の長女ハツ、1番下の妹はトメ、つまり生産はこれで止める(自分が産むわけでもないのに命名は男親の一存だと思います)女の子供が多い女系家族。僕の記憶では72歳で亡くなっているけれど過去帳を見ると75歳となっている、オマキさんと言うナンバーツーが亡くなったおばあちゃんの枕元で(いささか芝居じみて)よよと、泣き崩れていたのを覚えています。
話は戻って、生前のおばあちゃんの前に何十年後かに突然、末の弟が姉を訪ねて来ます。今にして思えば粗末な玄関のガラス戸をガタピシ開けて、、僕の目の前で、僕には目もくれずに長火鉢のところに座っていたおばあちゃんを見て…ねえさん!
ややあって、、カツかい?、、ハイ!、、。時間にすれば2 、3秒、お互い変わり果てた我が身を忘れて…。
この話を兄にか聞かせたところ、たまに兄が思い出したように自分が見聞したような伝え方を僕にします、なんたって新派の芝居さながらのシーンでしたから、小学生の僕にとっても忘れられないシーンでした、、兄にとっても印象深かった話だったのだと思います、、と、まあ、、何が言いたいかと言うと、1日長火鉢の前に座っていたおばあちゃんのことが少しわかってきた、ということです。激動の明治、江戸のしっぽはそのままに新しい時代を生きてきたおばあちゃん、、そりゃあ、長火鉢の前で思い出だけで生きていけるだろう、、と今にしてわかったわけです。
で、、僕は?…対抗できる位の昭和を持っている、、持っているか?よく吟味していないだけで持っているのだろうと思います。びすこさんが、図らずもちょっともらした…昭和が私を作った、(聞き違いかも?)同感です。
(僕が75歳からの仕事を作ると宣言して、何人かの方にお声掛けしました…お声掛けに対する答えかたは様々ですが尽きるところ皆同じ…私は時代おくれ…。
遅れたっていいのです…なんたって歳なんだから。でもできることがあると言っているのです。誰だって、自分が関わった時代の1人分の証言はできる、人間はだれでも死ぬまでに1冊の本を書ける、との意味もわかった気になりました。
ブログの掲載は飛び飛びになります。今のところ、元気ですが、この2 、3日起きるとき、腰が痛くて10分ほど腰を緩める必要があります。これからは、自分の体をだましだまし使って、生きていくことになると思います。
ご近所の方が…回覧板を隣に回す体力がないので飛ばして回してくださいとの電話がありました、昨晩関係する人にメモ用紙と伝言を伝えました、人はこうやって歳をとっていく。僕もだんだん縮こまって丸まっていく、まるまるいちまる。
(明日はミンナブンナ手芸クラブの初顔合わせ会が僕の家で、というか、通称四つ木御殿、であります、僕もそのメンバーに入れていただきました、さて、食後は掃除でもしておきます!あ、税金の申告もしておきます、住民税の比率が高くなったので…タックスペイヤーとしてちょこっと目も光らせておきたいです、なんちゃって、大して税金も納めてないのに口が滑りました、あはは)
いちまるさんと私って同じ年代で同じ時代に生きて、ただ、決定的な相違は片や江戸の下町育ち、もう一方は土佐の草深い田舎で幼年・少年少女時代を過ごしたことですが、この違いは私にはとても面白く、映画や小説で知っている東京の1950年代から2020年代の今までを生の声で、というか実生活経験者から聞けるので、それだけでもフォーラムは貴重です。
類似と相違、どちらも楽しい。ワクワクするくらい。これは、何たって基本的な人間観、といって大げさなら、人を見る目が似ているから、その上での違いが「多様性」として捉えられるのだと思います。職業倫理なんてシチメンドクサイ言葉を考えたのは野暮なドイツ人ですが、自分でちゃんとしっかり働いて出来る限り他人さまに迷惑をかけずに生きる(その上で余力があれば他人さまにも手を貸す)、という、普通の日本人なら理屈抜きで当然と考えていたことが、昨今では通用しなくなっていることを情けないと思います。年寄りの繰り言と馬鹿にされても、ここははっきり文句を言わせてもらいます。
前に伺った、私と同名のおばあちゃま、1888年生まれですか。私の祖母はヒデ(秀)という名で1889年生まれでした。宮尾登美子が憧れて、父親が遊郭経営という家の格から入学できなかったと語っている第一高女出身。祖母は三人娘の次女で姉が養子を迎えたのですが、何かと不幸続きで、かつては立派だったその家は今では廃家のようになっています。ヒデさんは88歳まで生きましたが、実際には87歳の誕生日のあと数か月後に亡くなったみたいです。1970年代なので、当時としては破格の長寿でした。しかも寝付いたのは数日で、それまで医者にかかったこともなく。
祖父が多分1884年か85年生まれ。当時の人は数えで年齢を言うし墓石の没年でも享年となっていて、それが実際の年と1歳か2歳の違いがあるので、戸籍謄本でもみないと確実なことは言えないのですが。
曽祖父は父がまだ学生で20歳の時(1931年)亡くなったそうで、学校が北の果てで葬儀には出られなかったと聞いているので、そのとき70歳だったということは、1861年か62年生まれ、元号は文久で孝明天皇の御代(こんな言葉を自分で使ったの初めて)に当たりますね。あまり昔話をしなかった父がその祖父に当たる曽祖父のことは時折話してくれたので、自分でも知っているような気になっています。
そうそう、トメって名前よく聞きました。同じ村に私の家族と同世代で7人の子沢山がいて、6人目が生まれた時スエ(末)と名付けたのですが、また出来たので今度はトメに。本当に止まったみたいですよ。その7人のうち4人が残っていますが、みんな年をとりました。
また昔話しようね、火鉢に当たりながら。