12月1 2日(月曜)晴れ
昨日の午前中、新宅の外回りを少し整理した。厚手の大きなガラス板が何何枚もあった。水槽、ペットボトルに水が入ったものは10本くらい、丸めた金網…狭い建物との隙間を通せんぼするためのもの。どかしてみるとそこに4センチ幅の50センチ位の横長の通気口が2つばかり。冬の間は床下防寒のたために塞いで、夏になったら解放しようと結論。ネズミが出入りしないように5ミリ位の網の目の金網を用意した。
昼には兄と青戸で会食、OKさんがその後、合流し四方山話。OKさんを通して兄を知ることになる。1941年生まれと1948年生まれの差は大きい。軍隊帰りの教師がクラスで問題が起きると…連帯責任と称して、男子学童全体に往復ビンタ…兄とOKさんがうなずきあう。戦後のひもじい思いも共有している。たった7年の差がとてつもなく大きい。時代背景が世代を構成する。
OKさんに新宅の修理の進捗状況を聞かれたので…順調ですとお答えした。端から見れば大変そうに見えるのですが…僕にとっては今までやってきた仕事の続きなのですと説明すると…納得してくださいました。OKさんが見える前に…兄のズボンと上着の繕い物をしたことを告げると、兄の上着のポケットのジッパーがちゃんと動くように繕われているのを確認してこれまた感心してくださいました。兄は兄で、目の前で弟が繕い物をしているのを見ながら…どこで覚えたの?職人は見て覚えるの…と笑ってごまかした、が、ま、母の「しぐさ」の記憶だと思います。僕もどこかで誰かに僕の仕草を見られている…あはは。
うちも夫婦が1940年と1947年なんですが、昔の貧しさを語るときは互いに共感を覚える部分がたくさんあります。逆に自分の弟妹はそれぞれ三歳違いなのに、こんなにも記憶や感想が異なるのかとよく驚いたものでした。1950年を過ぎて漸く日・独ともに復興に向けて本格的に動き始めたことが大きいかもしれません。
昨日は50代の夫婦のところにお茶に招待されて軽い夕食までご馳走になりましたが、そのとき日本も戦後しばらく米国に占領されていて私はoccupied Japanに生まれたのだというと、占領下の日本のことなど全然知らなかった、と驚いていました。ドイツも西北は英国、西南はフランス、東南は米国、東北はロシア(ソ連)に占領され、主権を回復したのは1955年。日本より3年ほど長かったのは連合4カ国の利権が絡んでいたためで(東独は1990年までソ連の属国)、日本人でそれを知る人は少ないから、ドイツ人が日本の戦後を知らなくても不思議ではありません。
・針持ちて母の仕草を指に訊く びすこ