12月10日(土曜)晴れ
昨日の朝早く新宅へ行って、修理に必要な材料や購入部品類をチェックした。
前に住んでいた方ではできない掃除の箇所、階段室の天井と壁とかにハタキをかけようとしてやめた。埃を撒き散らすことになるからだ。砂壁を傷つけないように平な板をあてがい、そこに脚立を立て掛ける。こうすれば楽に高いところに手が届くのであっさり雑巾で拭く。前、住んでいた方もこんなふうにして掃除したかったろうなぁと思いました。洗面台の漏れとか…雨戸の敷居が朽ちた箇所等なども僕が直すところを見たらきっとその都度、気が清々することだろうと思う。
もっともこんな事は自分の住むところで…うまくいかなければそれなりに暮らせば良いから気楽なわけで、これを、人に頼まれてお金をもらうということになればそうはいかない。それもそうだし人に頼めばお金がいくらかかるか大体想像がつくので(莫大なお金!買った古い家の値段よりももっとかかることもしばしば)…お金がない僕としては自分でやっているわけです。責任のない仕事がこんなに気楽なものだとは思いませんでした…あはは🤣
昼頃シンフォニーヒルズで立石図工クラブの展覧会があるのでちょっと顔を出してきました。Gさんやお名前を知っている方の作品を見て…さっと帰ってきてしまってから…あっ!Aさんの作品を見ていない…後で一緒に食事をしたGさんにお聞きしたら…別にもう1カ所作品展示ブースがあったとか…最終日にもう一度拝見しに行くことにしました。その場所にいても他にやることを思いつくとそちらのほうに気分がザーッと持っていかれてしまう僕の悪い癖です、というか病気です。
今日もちょこっと新居に行って気になっている箇所に着手して…すっかり仕事をした気になる…仕事なんてきっとのんきにやれば楽しいものかもしれない、、のんきにやれない事情が恨めしい。
お金をもらうんだから多少の苦労は仕方がないと思うことが普通なのが不思議だ。50年間ずっと不思議だ。
50年前より職場環境が大して改善されてない、それそれどころか、後退してるような感じを僕はいつも持っています、こんなはずではなかった。近未来の青写真は(古い言い方!)誰がどこで何をどう描いているんだろう。柄ではないとは思いつつもそれを考えながら、調べながら、文字起こしをする楽しみ。やったことがないことには興味があります。
その作業を絵を描く前のデッサンのつもりで、新宅の、今より少しは陽のあたる部屋で文章にしてみたいです。誰かに読んでもらうというよりは考えるために文章を書く…これが本音です。文章を書く面白さもそこにあると思っています。絵を描く時でもふとうまくいくことがある。文章でもそんな時が持てたら楽しいしドキドキするでしょうね。
(うん、やっぱり洗濯機は台所に置くことにしよう…トイレの近くの小さな洗面台をとっぱらった後に洗濯機をおこうと考えていたが、やはり洗面台は残して、水漏れを防ぐために金属パイプ、パッキンを交換し使えるようにはしておくがむしろ少し前の時代のインテリアとして残そう。床下収納の上げ板も古びたそのままを見せて活かす。こんなどうという事のないことを悩むのが楽しい)
本当に老後の選択肢が増えたと思います。複雑化(単純化?)の最先端都市部における自然環境をどんどん研究したり調査したりするフィールドワークに出て行って欲しいです。昆虫が少なくなって、スズメがどんどん減ってネズミもそのうち見なくなり、気が付けばミミズがアスファルトの下から喘ぐようにして地上に出て干からびているのに気がついたのは3年ほど前です。遊びの選択肢は600年分ぐらいあると思う(もう飲んでいるのでまた適当なこと言ってます)ので、団塊世代以下は気をしっかり保ち、よく言われていることですが次世代への橋渡しを負担する気概で頑張って欲しいです、なんちゃって😅
「誰かに読んでもらうというよりは考えるために文章を書く…これが本音です。」これ、同感です。もちろん読んでいただければ嬉しい、弾みもつく。人の眼に触れると思えば多少の緊張はある。でも、書くために考え、書くことでその考えをまとめる、という作業は脳の刺激になっているはずです。
今朝の新聞に、これから日本人の認知症は減少するとありました。学びの大切さを知って、常に学んでいく姿勢が今の中高年にあるから、ということらしいです。戦後の教育制度に問題がないわけではないけれど、考えること、学ぶことが奨励されるようになったおかげで、特に団塊世代以下は溌剌としている人が多いですね。