ゆとり教育から個性消費社会へ(言い得えて妙!)と題された本(岩木秀夫著:ちくま新書2004年1月発行)を手に取る。本の後ろの方の10ページばかりパラパラめくってみて、ざっくり何が言いたいのかをとりあえず把握してから、あれこれ空想した(勝手な空想です念のため。本の中身のもう少し詳しいことは、通読した上で別の機会で取り上げたい思います)。
この本に今更、言われるまでもなく僕らはとっくの昔から、自分自身を商品と考える癖がついていた…そうさなぁ…どこまで遡りますか…産業革命、、およそ250年前。250年かけて、やっと本物の、自分自身が商品になってしまった僕らは、自分自身が商品になりおおせた、その自覚は失われている、たぶん(ご多分にもれず、洗脳された後は洗脳された自覚がないからだと思う、もう一度言います、勝手な想像です)。
カメレオンのように服を着替え、体の中にオンとオフの切り替えスイッチがあり、大体誰でも二重人格だ。仮面は2、3枚持っている。ある人格からある人格に切り替えるスイッチも内蔵している。人格Aから人格Bに変換スイッチを入れる、人格Aから心は解離され人格Bとなる。今、便宜上、心と言いましたが、もしかしたら言い過ぎかもしれません。心の定義が難しいからです。そこは個性と言い換えたほうがわかりやすいかもしれません。つまり商品である僕らを説明するのに心などというややこしい概念を持ち込んでは商品のスペック(仕様)が不明瞭になる(個性消費時代というヒントからここまで勝手な空想が飛びました)。
僕らは喜んで商品になったわけではないのかもしれないけれど情報化に伴って僕ら自身の商品化も進んだ。
少なくとも、はっきりと、そういう自覚を持った方が「心」を取り戻す「よすが:縁」にはなるとこの本の後ろの方をパラパラめくりながら、思いました(この本の中で心を取り戻せと言っているかどうかは全部読んでみなければ分かりませんが当たらずとも遠からず、、であって欲しい)
ますます加速化するロボット全盛時代には僕ら自身がロボットに身を寄せる方が社会全体の運営上?効率が良い、、と、反語的な意味を込めて言ってみる。そうやってまず、しっかり自覚してから長い時間をかけて「心」を取り戻す時代に向かっていけば良いのだなぁと思いました。
だって、このままでいいわけがないじゃありませんか… なんか寂しいよ。産業革命の黎明期から今まで250年かけてこの体たらく。かくなる上は…250年かけてゆっくり戻していけばいい…地球の寿命はまだまだ続くのだから、、運がよければ人間の存続も…あはは。
(以上、ベルト・コンベア上のフリーライダーの皆さんへ、同じくベルトコンベヤに乗っているフリーライダーより😜)
(フリーライダーのどこがフリーなんだか、勝手に降りることもままならない、乗せられている自覚もないのに、、地球の自転を僕ら自身が自覚できないのと同じようにベルトコンベヤ上の僕らはその速度すら自覚できない、つまりベルトコンベヤに乗っている自覚がない、、と、ここまで書いてやっと、この本を真面目に読む気になって参りました、さぁ起きます)
目下、またもや、孝子蔵書にあった「日本を思う」という本を読んでいます。著者は福田恒存、私の若い頃はシェイクスピアの翻訳と芝居の演出で知られた評論家でした。私の知識はその程度のお粗末なもので、この本を読んで初めて、彼が戦後の「進歩的文化人」と対峙する保守派だったことを知りました。
この中の最初の章「日本および日本人」は昭和29年、敗戦の屈辱に続く貧しさの中で日本が苦闘していた時期に書かれたものです。その中に次のような箇所がありました。(長くなるので、部分的に引用します。)
<もともと明確な宗教意識を持たなかった日本人は、ことに明治以後、儒教とその実践的表現である武士道もあいまいになり、国民的道義の帰趨を失ったということができる。わづかに教育勅語がその空白を埋めてゐました。その道徳的空白感は戦後特にひどくなり、若い世代のあいだにはなにを善とし、なにを悪とするかの基準が、いひかへれば、なにごとにせよ、してはいけない理由が失われたといふ。確かにかれらは一種の病的合理主義にとらへられてをりました。
(中略)
それにもかかわらず、大部分のひとが秩序を破らないのは、法律や世間が怖いからであり、機会がないからでもありますが、その根底には、私たちの神経が承知しないということも大いに手伝ってはゐないか。(下線はびすこ。)>
この下線のくだりを読んで、私は戦後の日本人が、その身から剥がすようにして少しづつ捨て去って来たものに思い当りました。
今日の日本人礼讃は往々にして馬鹿げていますけれど、かつて明治以前に日本を訪れた西洋人が犯罪の少ない社会に驚いた理由も納得できます。悪や汚れや見苦しい欲望を承知しない神経というのは、本来なら富や繁栄などを犠牲にしてでも守るべき宝だったはずです。