本を読むって事は「聞く」ことだと思った。多分そうなんだ。聞く事は楽しい。そんなことに今頃気がついた。ところが今、世界はおしゃべりで充満しているので、聞き分けて、聞き取ることが難しい。世界は今忙しいのだとわからしめるためかのように発信し続けられている、膨大な情報のせいだ。ウクライナで数万人が既に死んでいるという情報と、その戦争が数兆円の需要を喚起した(私見)とも読み取れる情報が、僕らの耳の脇を通り過ぎていく。こんな酷い事実が耳の脇を素通りしていく世の中が発狂していないと言い切れるのか。
情報公害とでも呼びたい情報の洪水の中から、聞きたいものを聞く…これが意外と難しい。聞きたいものが何かわかったら耳を傾ければいいだけのことなのだが。
まぼろしの子供たち(ボストン作/瀬田貞ニ訳:偕成社文庫3109: 1983年10月初版)を今読みながら、そうだ耳を傾けよう、そう思いました。聞こえてくるまで耳を傾ける。そんなことしばらく忘れていました。
(アド街っク天国の堀切編に出ていた方が亡くなったと友人から昨日聞きました。テレビの向こうでにこやかにご飯にカレーをよ そ う、食堂を営むその女性が、お客の女性のために食べやすいように、ゆで卵を乱切りにしてのせるハイライトがテレビを見ているたくさんの人の脳裏に焼きついたことだろう、溢れかえるような花束よりも、あの方にとってなんとふさわしい花道だったろうと幸せのおすそ分けをもらったような気がいたしました)
自然の音…の中に立ち話をするおばあさんの話す声があったのでほっとしました。とうもろこし畑を渡ってくる風の音は聞こえて来ませんが、隣の学校の子供たちがせわしなくあるいはのんきそうにあるいはくねくねしながら通り過ぎる環境にあるので気持ちが落ち着くのかなあと思いました。並木道も微妙にくねくね曲がっているのでよちよち歩きの子供たちも放し飼いになっています…道端に適当に座るものを出して3、4人固まって年寄りが話しているのもいつもの風景です。ああ、僕はそんな風景に救われているんだと今気が付きました。