小さな、本当に小さな場所を確保できそうな動きがあった。小さな場所で小さなことをして小さなことが少しずつ広がってそれほど小さくなことでないことができる可能性を手にしたと思っている。僕がやるのではない。僕はその状況設定の一部に関わっただけ。
その小さな場所で市民権を得るには僕1人ではかなわない。ゆっくり時間をかけて少しずつアピールして少しずつ譲り合って、少しずつ馴染んでいく…そんなことが1人でできるはずもないし、やる意味もそれほどない。長い時間をかけてできたその場所のバランスが微妙に動く、つまり住民が1人変わるだけでがらりと環境が変わることだってある。できることならよく変わりたい…まずは馴染んで…ゆっくり話し合っていこう…今までもそうしてきた。課題は山積している。一つ一つできることからやっていく。だれでもそうする。僕もそうする。
(ザシキローノマドも、60回。60歳と読み替えると還暦だ。振り出しに戻って一歩一歩また歩んでいく、経験だけが人生だ、、サヨナラだけが人生だ、のパクリ)
ランショウ、と言えば良いのですか、良い言葉ですね、1つの所作が人をつなげることがあることを実感しています、分かり合うために途方もない時間がかかることも。
小さな親切大きなお世話などというひやかしがありましたが(小さな親切を口にしたのが当時の東大学長だったのが面白い)、小さな行動、大きな可能性、ですよね。
濫觴という言葉を思い出しました。揚子江も源にさかのぼれば、觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流、という意味だそうです。