2009年ドイツ紀行🇩🇪 007
…最終見学日 あっちこっち…
ドイツの将来に関する重大決定は、テヘラン巨頭会談(1943年11月・12月)、ヤルタ巨頭会談(1945年1月)、外相会談などで事は既にに運ばれていた。テヘラン会談の夕食会の席上でスターリンは5万から10万人のドイツ将校の処刑を迫った。ポツダム会談では、ドイツに対する戦時賠償金額で交渉が難航し形式的な妥協としてドイツーポーランドの国境線を西側に大きくずらし、戦時賠償金は、各戦勝国の占領地域からの取り立てで済ませるということになった。7月24日には、米大統領からスターリンに対し、原爆を保有していることが伝えられた。三巨頭が調印した「ポツダム協定」は形式的には最終的な平和会談の開催を考慮に入れたものであったが、その後1度も行われたことがなかった。ソ連占領地となったベルリンは連合軍ドイツ管理委員会の場として、米英仏ソの各当時地区に区分された。
第二次世界大戦について学ぶ時、第一次世界大戦まで遡って考えないと判断を誤ることがある。両大戦を通じて、両大戦を通じて、2度も戦争の引き金となったドイツに対して、ヨーロッパの人々は強大なドイツの存在を望まなかった結果なのだろうと思います。
日本語のイヤホンガイドで館内を見学し、宮殿を後にして、元の道を通ってトラムでポツダム中央駅へ戻りました。ベルリンへの電車は、新しい2階建て列車で車両編成も5輛ほどでゆったりした感じです。昼過ぎの時間帯なので、学生の乗客が多いようです。見学は今日が最終日なので、できるだけ多く廻ろうと昼食は抜き。
・森鴎外記念館…フンボルト大学(戦前はベルリン大学)付属の記念館で鴎外ベルリン留学中の下宿である。自伝的作品「舞姫」が知られている。ドイツ語に訳された日本の歌曲「出船」はドイツでも歌われているとNHKのラジオドイツ語放送で聞いたことがありますが、小説「舞姫」のイメージと重なっているのは偶然だろうか。
・ドイツ連邦政府議事堂… 1899年、ドイツ帝国の議事堂として建設されたが1933年2月の放火事件で青銅の円蓋屋根が焼け落ちた。放火は共産党の仕業とみなされたが、その後の調べで弾圧の口実にナチスが起こした犯行という説が有力になっている。修復されることなく大戦が終了し、西ベルリン領内となったが、西ドイツの首都がボンとなったためそのまま放置、小規模の修理によって維持された。統一後、ガラスの円蓋を乗せて議事堂として修復した。見学のため、並んでボディーチェックを受ける。係りの人が「ニイハオ」と声をかけてきたので「ジャパン、コンニチワ」応えました。30人ぐらい乗れる大型エレベーターで屋上へ直行、ベルリン市内がよく見渡せます。首相官邸も総ガラス張りですぐ隣です。
・ブランデンブルグ門… 19世紀半ばまでベルリンを取りまいていた門のうち、唯一残された門、東西ベルリンを分ける門でもあった。西ベルリン側から東ベルリン地域に入ると、絶好の写真スポットとあって、米・ソ両国の旗を手にしたモデルの兵士が要望に応じてくれる。
・フンボルト大学(旧ベルリン大学)…哲学者ヘーゲル、医学博士コッホ、そしてアインシュタインはここの教授。卒業生にはハイネ、マルクス、エンゲルスなどがいる。
フォルクスワーゲン本社ビルに入り、ショールームの一角で孫のために超小型のワゴン車を購入。もちろんハンドバックに入るサイズのものです。次号に続く
ロシア文学ロシア民謡それにしては日本人馴染んでますよね、僕の相棒がロシア語専攻で僕と付き合いだした頃、習ったロシア語みんな忘れてカチューシャを歌える位で(たいしたことない)なんて謙遜してましたっけ。女優さんが、手に手を取ってをソビエトに駆け落ちした、なんて話も僕なんか背景が分からないので、雪の降る夜は楽しいペチカの物語の続きです。ソルジェニーツィンの収容所群島から政治犯とされた連中の粛清の凄まじさとスターリンの悪行の数々、「体験」としては読み取ることはできませんでした、つまり、ちゃんと読んでなかったんですね。その後ワイルドスワンを読んだときに中共の文化大革命のインテリの粛清と毛沢東のでたらめさを見て…社会はいとも簡単に広く深く腐敗が蔓延することにいい年をしてびっくりしたことを覚えています。結局井の中の蛙。それにつけても戦争中何百万と駆り出されていった兵隊さんたちの世界観はどんなだったのだろう。少なくとも初めての土地に「はじめての外国」を見た人がほとんどだったのではないだろうか。しかしそれでもなお、物見遊山の見学ではないどんな形にしろ人々との交流、戦火を交えることも含めて「見た」。それに比べ…結局何も知らずに僕らベビーブーマー1期生の大多数は世界を見ずに、読み取れずに、死んでいく、ま、僕もその1人です。日本はよく飼育された成員からなるブロイラー国家、なんちゃって。