1月6日(土)
還暦…もし本当にそんなことができたらどんなに素敵なことだろう。
僕は確か60歳の時その想定をしてみた。67歳で小学校入学。75歳で中学卒業、高校入学。本当にそうするのだ。カリキュラムも全て組み直す。未来社会において15年も学習すれば…だれでも今の博士位にはなれのではないか、そう考えるのがまともで…そう考えないのは人間をあまりにも甘く見ている。
つまり今僕は高校のフレッシュマン。もちろん未来は未開拓、その分、、選択肢は迷って選べないほどある。
このように考えてみるのが本来の老年学ジェロントロジーであるべきではないのか?
そもそも設定が間違っていたのではないか。
目標設定が低すぎた…と考えてみるのも新春らしいかなとふと思いました。
社会の仕組みは複雑なだけで難しいわけではない。その複雑さも手順がすっきりしているならば複雑と言えるかどうか怪しい。順序を踏めば小学生でもできること…これは複雑とは言えない。(今日川口市役所で兄の転居届を出す際待ち時間にこんなことを考えていた、、)
これからもっと増えると言われている認知症、、単純作業に分解して手順を踏んでもらうことを考え、フールプルーフ/間違った手順では作動しない仕組みを取り入れれば社会全体の生産性は上がる。足を引っ張るお荷物に見られがちな認知症の人も生産活動に従事できる。
折り紙や塗り絵が施設の談話室にたくさん飾られていました。僕が将来認知症になったとして…僕だったら傍目に見れば何か生産的なことをしているように見えるような行動をするに違いない。ちょっとしたガイドがあれば本当に生産的なこともできるだろう…そう思う。こんなことを真面目に考える人が10,000人に1人いれば、、それ専門に考える人は日本の中に単純計算で10,000人いることになるので、、世の中は変わっていく。
まぁ未来小説を書くときこの辺も表現してみようかな。本来なら今頃、、今、頓挫しているものの中ぶらりんの小説も、第一部ぐらい終わっているはずなのに…ちょっと悔しい恨み節、、こんな馬鹿なこと言ってガス抜かないと…お腹が膨れてしまいそう…あはは。
前にもいちまるさんとの話で書いたことがあると思うのですが、年取って再度学ぶことを私は是非お勧めします。それを書いたときは小学校の高学年から、としたような記憶が。でも中学・高校の6年でもいいでしょう。因数分解とか三角関数とか(結構好きだった)、今ならアンペアやファラデーの話も理解できそう。ちゃんと理解できなくて「なんとなく」でも、もちろん構わない。試験があるわけじゃないんだから。でも、玄武岩と花崗岩を区別できるだけでも、高校の世界史でちらと習った三圃農業(連作で土の栄養分が枯渇するのを防ぐために、一時期土地を休ませる。これは日本にも導入された)が中世のドイツで始まったことを知るだけでも、眼の前の景色が深みを持つのではないでしょうか。
今朝早く、義兄が亡くなったとの知らせ。85歳と10カ月でした。死因は肺炎ですが、そこに至るまでにいろいろあって、今さらそれを言っても仕方ないものの、姉が医師で妻が薬剤師で(この二人は仲が悪い)、という環境でもっと普通に気を付けることはなかったのかと思ってしまいます。医学や薬学の知識より、普段の暮らしを健全に保つことの方が遥かに重要なのではないかしらん。
そんなわけで、ちょっとまた出かけます(葬儀はかなり後になるでしょう、今はどこも冬休みで連絡が取りにくいし)が、コメントは必ずしますから毎日の記録、お願いしますね。