12月7日(木)
記憶の森、、と気取りたいところですが僕の場合「林」くらいにしといた方が良いかも知れませんが… 1人の人間が考えている以上に記憶の「光と闇」は多分膨大なものがあると思うとちょっと怖いです。
小説を書くのも恐る恐るの場面が多くなってくると創作そのものが難しくなってきますね。でもなぁ…恐いもの見たさというのもまた人間の心理だと思います。
亜紀も、籾二もどうなって行くのかなぁ?それが特に読者が少なくとも問題のない僕が小説を1つの実験台にして描き続ける理由なのだと思います、これは別に気取っているわけではなくて単純な興味です。
つくりごと(作る、造る、創る、、)を増やしていかないと単純化に負けてしまいそう。がんばれ人間、がんばれ僕…あはは🤣
(今日は兄の家に行って兄が要求するものを家探ししなければいけません、明らかに「ない」と僕が判断できるものでも一応探さないと、もしかということがあるので…兄の記憶の中の森探検です、、ちょっと気が重いです…しっかり食べて動くぞ!)
サザンカや数多のつぼみやれ師走
おっしゃる通り、人間の記憶や知識は厖大なものだと思います。ところが、余りに経験があり過ぎ、あるいは知り過ぎて、人は自分が知っていることも覚えたことも思い出せない。
私がいろんな話(大部分はくだらないお喋り)をすると、周りの人から「よくそんなことを知っているわね」と言われますが、私の知識量が彼らのそれより多いわけでは決してない。私は自分が知っていることを知っている部分を語る。もしそれを彼らがやれば、その話の大部分は私の知らないことなので、私も彼らに「よく知っているわね」と言うでしょう。
私の場合は、生来全く活動的でなく、かなり怠け者なのに、なけなしの知識で何とか世の中を渡っていかねばならなかったから、ちょっとしたことでもそう簡単に忘れてしまっては勿体ない、という意識があります。持ち金の少ない人が、お金を大切にするのと同じ。
周りを見ていると、こちらに住む日本人は特にそうですが、とても活発で、いろんなことに手を出していて、アフリカだの南米だのいろんなところに行き、沢山の友人・知人がいて・・・そのくせ、彼女たちよりずっと滞在期間が短く、行動範囲の狭い私が知っていることも知らない、というより忘れている。
みなさん、次から次へといろんなことをこなし、「はい次、はい次」という調子、数えきれないほどの人に出会って「はい、パス、これもパス」という具合なので、たくさん見聞きしてたくさん忘れていくという生き方なのでしょう。
彼・彼女たちの忘れている部分に光を当て、自分が知っていることを知らずにいる(つまり意識下の)部分を掘り出せば、きっと物凄い量になるはずなのですが。
山茶花がまだ咲いているのですか。日本の師走はあまり厳しくないですものね。サザンカサザンカ咲いた道・・・
こちらは花など全く無くて、秋に赤く染まる薔薇の実も今は黒ずんでしまいました。こちらに薔薇の愛好者は多いですが、野生の薔薇もそこここに沢山あって、特にハマナスなどは花が大きく匂いが強く、そして9月も終わる頃には写真のように見事な実をつけます。それが時雨やみぞれで茶色になり黒くなる。
10月には
・浜茄子の実に赤々と陽の名残り
という風情だったのが、
11月には
・薔薇の実の朱を黒に変え霙降る
という光景です。