11月7日(火)
油絵の具で絵を書いていると…あっ、いけね、と絵筆が滑ったりすることがある、でもそれが丁寧に描くよりもずっと勢いとリズムが感じられて良いことがあります。
面白いことに見ている人もそこを逃しません、そこんとこの白が効きましたね、とか言ってくださる、ふしぎ。
前にもどこかで書いたけど、、ドラクロワの、アルジェの女たち、を模写している時(写真の模写、つまり偽物の偽物)、あっ、と声が出そうになったことがありました。一瞬ですが画面の中に入り込んだ錯覚です。
グラビア写真に大きな餅網みたいに四角い線を入れ対角線を入れていきます…その四角あるいは三角形に囲まれた部分を同じように網目状にしたキャンバスにグラビア写真の相当位置に単純に色を似せて乗せていくだけの作業です。
拡大コピーをした塗り絵と思ってくだされば大体合ってます。
まぁどなたでも慣れればすぐに割と簡単に模写がすすみます。職人技ともいえない技法ですが…どうも僕はこの安直なやりかたを小説に応用しているような気がしてきました。
下から上に向かってその年代に合わせたところにそのパーツ(シーン)を埋め込んでゆく。その際、
四角い網目と対角線で区切られたそこのパーツに色を施して行く(シーンを文章でなんとか格好つけて表す)パッチワーク。
画面構成?は主人公をめぐる人間関係で結ばれているので出来上がったものは出演者?それぞれのパーソナルヒストリー(パーツの色合い)を含んだ主人公の物語(遠くから見るとそれが何かぼんやり見えてくる)に見えるのではないか。まあ推測の域を出ない想像です。
多分に偶然性を利用して画面構成を企画している。そんなもの企画とも言えないのではないか、と思うと同時に…うまくいけば小説家と呼ばれる人たちの気分も少し味わえる、ちょっと違う自分に出会えるかもしれないという希望的観測を捨てていません。小説はまだ始まったばかりだというのに…どうなることやら。
(提示しているのはお芝居とは違う。芝居を見ているように書くわけではない…文章で綴っていくということは1枚の紙にト書きとコトバだけで舞台を作る戯曲ようなものでしょうか。台本。
言葉だけで何かを伝える。字面から声にならない声が聞こえてくるような気がする文章が1行でもかけたら、さっと描いた絵筆のタッチの冴えにも通じ、小説を書いた醍醐味も味わえるのだろか。言霊に会う。
そんな小説を書いてみたいなー。
望むのは僕の勝手…ハハハ。
物部信一の昨日の夢
信一は紫式部と同衾していた。亜紀は別の部屋で寝ている。
亜紀はこの場面を見ても怒る事はないだろうと思う。物部信一は夢と現実を同一空間に存在させて何とも感じない男。もちろん亜紀はそんな信一を知っている。
紫式部とはもう三度寝ている。亜紀とは、新婚初夜以来一緒に寝ていない。2人とも何とも思わない、確信。
亜紀は情緒に欠陥がある。それを周りの男どもは勘違いする。俺が何とかしてやろう。亜紀の思うツボだ。せいぜい騙されるがいいや。亜紀には僕という歴としたコントローラーが付いている。
紫式部は思っていたほどの美人ではない。でも一応瓜実顔で普通。
美人とは言えないかもしれないがちょっと後を引く…憂い顔。と言って、竹久夢二描くところの女、目が流れてしまいそうななよなよした女ではない。時代が悪かった…信一は紫式部に同情した。
信一は、千年の時を越えて自分と同衾して、向こう向いて寝ている紫式部の背中をツンツンしてみる。特に肩は凝っていないようだ。どちらかというといかり肩。信一好み。文学少女の面影は無い。信一はもう一度紫式部の背中をツンツンする。こちらを向いた。眠そうでそれでいて泣きはらしたような目をした紫式部はちょっと色っぽかった。普通の女だと思った。それがたまらなく愛しかった。信一はそっと唇を寄せた。紫式部の瞳にすっと涙がこぼれた🥲
信一さん、お先に出かけますね…という興ざめな亜紀の声で目が覚めた。僕のおでこにお体裁にキスをして、もう背中を向けている。
信一は、もう少しで紫式部を抱き寄せるところだったのに…と、亜紀の後ろ姿を恨めしそうに見送った。
彼女は自分と合わない…もちろん平安時代にも、現代の日本にも。
いってらっしゃいと言おうと思ったけどやめた。目で送り出してから…夢の続きを夢想した。ちょっと勃起していた。僕は亜紀みたいにサバサバした女とは合わない。
亜紀はぼくのおもちゃだ。僕は彼女からインスピレーションだけもらえば充分。多分彼女もそう思っている。
それにしてもアメリカから僕宛に送られてきた「なかよし日本」の原稿を見た時はびっくりした。あんなもん日本で読まれるわけがない。
(亜紀があの本で「伝えたいこと」はあの文章のままでは日本人には伝わらない。特に女には反発を食らうだけだ。換骨奪胎とはあのこと…つまり僕がリライトして彼女がそのまま一言も言わずその原稿を出版社に渡したのだ。
後は見ての通り。それにしても異常な売れかただった。おそらくは森山祥太郎が金にものを言わせて買い占めたのだと思う。森山祥太郎は表舞台から突然姿を消して久しい。ニューヨーク郊外で幼稚園を開いているという噂は聞いている。
亜紀はほとんどどのページにも校正、というか僕が書き直した換骨奪胎の文章を見て目を丸くしていた。ところが不思議なことに数日後、亜紀はにっこり笑ったのだ。
「なかよし日本」は僕がリライトしたそのままで出版されていた)
新婚初夜、亜紀は僕がマザコンであることをいっぱつで見破った。賢い彼女はだから僕が好きに振る舞うに任せたのだ。あの日2人に暗黙の契約が成立した。
紫式部は男の味を知らない、僕も女の味がよくわからない、そもそもそんな肉欲下品だ。わからない同士肌を合わせて、分かり合うのだ…何を?、、そんなことわからなくていい。人間はそんなに単純にできていない。一緒に寝ることが肝心なのだと信一は思った、これは儀式なのだ、確信。
紫式部が好い…信一は亜紀の服装を昨夜のうちにコーディネートしておいて良かったと思った。二度寝することにした。いってらっしゃい亜紀、男に負けるなよ、と、毒にも薬にもならない無難な独り言を心の中でつぶやいた。
信一は紫式部にすりよる。この女、男には幻滅している。体の中にうずくものを悲しみで押さえ込んだような紫式部、好き、、この女は夢の中に生きる女…そして僕も、、信一は夢の中に再び落ち込んでいった。
信一の独白
亜紀と僕はコインの裏表。彼女は物事を物理的に分析できると思っている。僕は僕で物事は全て言葉で表現できると思っている。そのように理解していながら亜紀も僕も自分自身のその考えに対して懐疑的である。
意識と心。感情と論理。そう言葉に出してみてもそれが何を意味するか僕は説明できない。
亜紀は言葉を信用していない分、感情を優先させることが多い。最優先と言っても良い。
1人ずつではどちらも片肺飛行。2人揃ってやっと1人分。2人でいればもう少し遠くへ行けそうな気がする。遠くのどこへ?今いる場所とは違う場所へ、僕らは動物、動きながら考える。そして群から離れることはできない。
亜紀も同感のはず。
与謝野晶子に「やわ肌のあつき血潮にふれもみでさびしからずや道を説く君」って有名な歌がありますね。これを初めて見た時、余計なお世話じゃないか、柔肌なんかに興味のない男がいたっていいじゃないか、勝手な思い込みで歌なんか作るな、と思いました。いや、どんな歌を作ってもいいけど、男も女も異性なしには生きられないなんてのは、男が大好きな女の思い込みだと今も思っています。今の時代だと、アセクシュアル、ノンセクシュアルも、さらに禁欲主義も、多様性のうち、好きなように生きればいいんですよ。
その与謝野晶子は終生ダンナ与謝野鉄幹の女好きに苦しめられる。今正確に思い出せないのですが、嫉妬に怒り狂って泣きわめく晶子に鉄幹が「どちらの女も好きなんだからさ、がまんしてよ」と宥めたのに、さらに怒りを募らせて作った歌がありましたっけ。すべてがインスピレーションの種、というのはさすがの芸術家魂だと感心しますが。
「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」これは恋多き女と言われた和泉式部の歌ですけど、恋疲れして、煩悩から解放されたいと願う心を示しているそうな。でもこれを詠んだ時、彼女はそんな年齢でもなかったみたい。昔は栄養状態も悪かったから、みんな早めに枯れてしまったのでしょうか。