11月1日(水)
※亜紀はこの小説の中で3人の母親を持つことになる、というか今そうなった。
その三人目はアメリカのまかない婦ソフィア。
(ソフィアの憎しみと罪の意識との葛藤の日々、独白。
日本人を憎み続ける。それを自分の支えにすると決めて今まで生きてきた。この気持ちはこのままでは決着はつかない。死ぬまでそうするつもり?
それが間違っているような気がする。かたくなな私の心に、神は許せと説く。頭ではわかっていても、心が宙に浮いている。
今度の戦争が終わって10年も経つというのに私の中では昨日のことのようにウィリー(ウィリアム)を失った日のことを思い出す。パールハーバーの海軍基地に航空機の整備士見習いとして勤めていたウィリーを失った私の心は1941年12月8日に張り付いたまま。
神は日本人の何を許せと言っているの。
堂々巡りに結論を出さなければ私は小さな自分自身から抜け出せない。敵の懐に入るしか手はない。そういうつもりで祥太郎一家に入り込んだ。一家の一人娘、天真爛漫なアキといるとあの日以来固まってしまった私の心が動き出していることはわかる。私はもう一度子供の時代からやり直したい、、、
そう思ったとき、ソフィアは昨日、アキと交わした小さな取り決めの許可を順子に話す約束を思い出した)
朝食後、アキを学校に送り出した後、流し台で洗い物をしていたソフィアは洗い物の手を止めず、後ろを振り向いた。ソフィアの後ろの一角で仕事を始めた順子の様子を伺いながら、話しかけるタイミングを計っていた。
ソフィアは、ちょっとした報告があると言いながら、タイプライターに向かい何やら仕事中の順子に近づき、口火を切った。
ジュンコ、ちょっといいかしら?
庭に向かって開いている大きな窓があるキッチンの白い天板の小さな丸テーブルを仕事机がわりにしてタイプライタで書類の清書をしていた順子は顔を上げた。
仕事中の順子にソフィアから話しかけていく事は珍しい。
「アキに私のことマムーと呼ばせてもいいかしら?」
順子はタイプライターに指を乗せたまま、ソフィアを見つめ、突然言われたことの意味をつかみきれず、ごめんなさいね…どういうことかしら、、先を続けてと、目で促した。
昨日ね、学校から帰ってきたアキが私のことをマムと呼ぶから
私はあなたのママじゃないのよ、、と言いましたら、、
ソフィアはなるべく軽く話そうとしているけれど話はきっと軽くない、そう直感した順子はタイプライターを離れて食事用のキッチンテーブルにソフィアを誘いながら庭を眺める向きに隣同士で座った。
ソフィアはやはりなんとなくぎこちない、何気なさがとても不自然、きっと大切な話なんだろうと順子はつとめて笑顔をたやさず普段は口数の少ないソフィアが肩の力を抜くのを待った(緊張している時アメリカ人が肩に力が入るかどうかは別として、、)。
ソフィーごめんなさいもう一度最初から話してくれる?
オッケー
昨日私が作ったアップルパイ、、
あー、私もいただいた!おいしかった…と順子、、
そのアップルパイをアキが半分食べてからね
マムまたこれ作ってね、と言うから…私はあなたのマムじゃないのよ、、と言ったわ
そしたらね…アキは私の言葉を否定するように強くかぶりを振って、、少し黙ったわ、そしてこう言ったの
じゃあ2人目のママだから…マムー/Mamooと呼びます、、いいでしょ?
アキが真面目な顔してそう私にきくから、、そう呼んでもいいかどうかジュンコに聞いてみるわ、って言ったら、プイッと庭に出て行っちゃったの、、
順子はソフィアが話してくれた場面がありありと目に浮かんだ、亜紀の怒ったときの表情と仕草まで。
ソフィアはそう言ってから、ハハハとたっぷりとした体を大げさに震わせた、やはりどう見てもソフィーに不似合いな芝居がかった甲高い声、、。
順子にはそれがソフィアの精一杯のカモフラージュで、その発言が否定されたらどうしようかという気持ちを隠すものだと直感した…切ないくらいの稚拙な演技。
順子はしばし考えるふりをして、、ソフィアに負けない位の芝居じみた声で少し大げさに声を張り上げた、、オオーケイイ!
オーケー、マムー!!私からもお願いします!あんなおてんば娘とても私1人の手にはおえませんもの、、アキにはもう1人のお母さんが必要、と言ってわざとらしくアメリカ人みたいに目をぱちくりさせてみせた。
ソフィアは心底、胸を撫で下ろした、、よかった、、それまでの緊張がいっぺんに解けた。
マムー!お茶にしましょう、と順子は明るく微笑んだ。知らない間に順子自身も緊張していたのだった、そして声を張り上げた途端、今までの長いこと背負ってきた肩の荷が嘘みたいにすっと軽くなった気がした。
2人はコーヒーを飲みながら、たわいない世間話(すべて順子が話を誘導していた)をしているうちに気がつけば…アキの学校での出来事や学校から帰ってきてからの日常生活のことから身の回りのよもやま話まで、女同士の話は尽きることがない。
そして…今まで2人ともあえて避けてきたお互いの身の上話に移っていった、、。(順子は祥太郎のアシスタントも務めて客あしらいをしているせいか、とても聞き上手)
ソフィアは自分に縛りをかけていた鬱屈する心を突然、今ここで全てぶちまけたい衝動にかられた。
もう我慢できない、今しかない、私が壊れそうだ、正直に告白しよう。この家にまかない婦として入り込んだ理由も包み隠さず洗いざらい全て明かしてしまおう、、順子がそれを受け止めて、くれるかどうかなどという事はもう考えられない、ゆっくりと落ち着いて話を聞いてもらおうと思っていた当初の心づもりはどこへやら、抑え切れない衝動がソフィアの胸の内に雪崩のように押し寄せた。
ソフィアが繰り出すだんだん高まる激しい言葉の一つ一つは多分今の今までソフィアが誰にも話せなかったうっぷんの吐露に違いないとすばやく理解した順子は一言も聞き逃すまいと耳を傾けた。ソフィアが繰り出す言葉の奔流に順子は胸が締め付けられ、息苦しくなった。これほどの重荷がソフィアを苦しめていたことに恐怖した。
それでもなお話し続けるソフィアの顔が少しずつ緩み…聞いている順子が声のトーンが弱まってきているのに気がつく頃、まるで憑き物が落ちたようにソフィアの声が自分自身に聞かせるような独り言になっていった。順子はソフィアの後ろに回って肉付きの良い丸い背中をいつまでもさすり続けた。
ソフィアはやっと落ち着きを取り戻し順子に、優しく受け止めてくれてありがとうと、素直にお礼を言ってから今度はゆっくりと興奮した自分を恥じいるようにいつものソフィアに戻って静かに話し始めた。
順子の家にいるおかげで私は日本人も人間なんだとやっとわかりました。間違いを犯す人間、我々アメリカ人だって日本に原爆を落としました、それでも、わたしは、人でなしの敵をいっぱつで何十万人も殺したのだ、日本はこれでおしまいだと手をたたきました、いい気味だと思ったわ、、、。
私の頭の中はその時から狂ってしまった。戦争が終わってもう10年も経つというのに狂ったままだった、、。
どうして10年もかかったかと思うでしょう順子?憎しみが私の支えだったことが今日わかったの。
私との新婚生活が始まったばかりのウィリーは勤務先のアメリカの真珠湾にある海軍基地で1941年12月8日に私の目の前からいなくなりました。
でも今日突然あの日からの空白が埋まったのです、、憎しみはなくならない…その憎しみを誰に向けて吐き出したら良いか分からなくなっただけかもしれない。それでもいい。それでも私は今日、ウィリーを失ってから初めて平和な気持ちを取り戻せました。
憎しみが私を支えてくれる…心のどこかでそう思っていたことは確かだと思うわ、憎しみが絶望を支えることだってあるのよ、ジュンコ!軽蔑するでしょ。それがなければ私、とっくのとうに絶望してピストルをこめかみに当てて自殺していたと思う。
あなたが救ってくれた、いま、あなたが私をアキの2番目の母親にしてくれた、ソフィアは突然泣き崩れた。
あれもこれもいっぺんに初めて見たり聞いたりする知らなかったソフィアに突然出くわした気分の順子は空のコーヒーカップの頼りない取っ手を持つ指に力を込めたまま、言葉もでない。
床に崩折れて、子供のように泣きじゃくっているソフィアを優しく抱き起こした。
ソフィアはそばの壁を頼りに立ち上がると、まるで子供のように順子に甘えた、、
ジュンコ、、私を抱いて…私を抱いて私の日本人に対する憎しみを私の体から絞り出して…お願い…
順子はソフィアをその細い腕できつく抱きしめた。
母親に抱きつく子供に見えたのは順子の方であった。
気の済むまで抱き合った2人は離れてから手を握りあった。
アキはいい子ね、、とソフィア、、
順子は、、イエス、私もじつはだいぶ前から気がついていました…とわざと真面目な顔をして言ってから、お互いの顔を見つめあい、微笑みを交わし、そしてまた抱き合うのだった。
(多分一番、幸せなのは、千枝の分まで引き受けてくれた2人の母を持てたアキ)
それからまた思い出したように…サンキュー、ジュンコ、サンキュー、、、ソフィアの目がまた潤み始めた。
ソフィアは、、アキは神が遣わした、私を救うためにやってきた天使だと思った、、
クッキーの袋を切り、中身を木製のボールの中に全部あけて、2人が2杯目のコーヒーに口をつけてまもなく、順子は自分が継母であることをソフィアに伝えた。
そして祥太郎との馴れ初めの話まで及んだ、心のどこかで誰かに聞いてもらいたい願望があったのかもしれない、それを吐き出せるのがソフィアであってくれてよかったと順子は感じていた。
続いてソフィアは、今度は私の番と言わんばかりに実は私も秘密があるのと言って切り出した話。
(祥太郎のことだった)
彼が彼のお得意さんのボブと英語で話しているときそばにいた私ははっとしたのよ
ウィリーに声がそっくりなの、ちょっとびっくりする位に、、
あらそうなの…あなたにとって外国人の祥太郎が、その声であなたの亡くなった旦那さんを思い出させるなんて、何か不思議、ご縁を感じるわ…順子は「縁」をどう訳したらいいかちょっと戸惑った。
私たち何かご縁/ボンテージbondage感じるわ…ヒューマンボンテージ人間の絆
そうね、私たちはつながっているかも、、順子、うれしいわ、そう言ってもらえて、とソフィアは柔らかな笑顔見せていた、順子がいつまでも見ていたいような笑顔だった。
実はねー順子、私たち2人とも18歳で結婚したのよ。ウィリーは高校卒業すると同時に親戚のおじさんに誘われて整備工として働き始めていたしね、私もパートタイムジョブをしながらウィリーと小さなアパートで暮らしていました。心が宙に浮いているようなそれでいながらとても満たされた日々だった、、わかるでしょジュンコ、、ソフィアは意味深なウィンクを送ってきた。
順子はそれを見て今度はもう、話はそれ以上深刻にならないことを察した。
憎しみが私を支えてくれる…心のどこかでそう思っていたことも確かだと思うわ、憎しみが絶望を支えることだってあるのよ、ジュンコ!軽蔑するでしょ、、。
それから2人は黙り込み目の前の窓から見える日の光が少しずつ移動していくのをしばらくただ、ぼんやり見ていた。
ねぇソフィー、今度は私の(打ち明け話)番…かな。
順子は自分が継母であることをソフィアに伝えた。そして祥太郎との馴れ初めの話まで及んだ、心のどこかで誰かに話したいと言う願望があったのかもしれない、、ソフィアは初めて聞く話にドギマギしながらも、そう、まるでおとぎ話を聞いているような錯覚に陥った。
それでも聞いているうちに…夫婦なのにお互いにキスしているところを見せたことがない不思議な人たち、のベールの1枚1枚がが剥がされてゆく気がした、、
ジュンコが私の前でこんなにリラックスしてくれた、、ソフィアはそのことの方が嬉しかった。ジュンコのロングストーリーも一段落ついた。
ソフィアはジュンコが一息つくタイミングで…実は私ももう一つ秘密があるの、と言って、わざともったいぶって一呼吸置いてから、、
ミスターモリヤマ、彼が彼のお得意先のケインさんと英語で話しているとき私ははっとしたのよ
ショウタローでいいわ、と、他人行儀をなじるようなふりして順子はソフィアにしかめ面をしてみせた。
ミスターモリヤマ、じゃなくってショウタロー、亡くなったウィリーに声がそっくりなの、ちょっとびっくりする位に、、
あらそうなの…わざとアメリカ人みたいなちょっとオーバーなジェスチャーをして見せてから、、あなたにとって外国人の祥太郎が、その声であなたの亡くなったウィリアムさんを思い出させるなんて、何か不思議、ご縁を感じるわ…順子は「縁」をどう訳したらいいかちょっと戸惑った。
(ご縁/ボンデッジBond、Bondage、、)
あ〜、私たちヒューマンボンデッジで繋がってるのね
ヒューマンボンデッジというサマセットモームの小説がなかったかしら?とソフィアが応じる。高校のクラスに本の好きな女の子がいてね、おませなその子がその本のことを話してくれて、今急にそれを思い出したわ、、
(順子も英語の勉強のためもあり、学生時代にその本を読んでいた、、ソフィアとの共通の話題、これこそ縁かもしれないと、順子はつながりの不思議さを思った)
2人が今までの思い出話をかみしめるように目と目を合わせたとき
玄関ドアが勢い良く開いて、弾けるような声が部屋中に響いた「マーム!」
(というわけで今朝、亜紀は3人の母親を持つことになりました、千枝、順子そしてソフィア)
今日の分、とても面白くて、そして考えること・頷くことがたくさんありました。(この一回分というの、気の効いた日本語で何というのか分かりません。英語では新聞やテレビ・ラジオの連載物の一回分をinstallmentというのでそちらから訳語を調べたのですが、「一部」とか「一回分」という訳しかありませんでした。)
さて今日のinstallmentに移る前に、ちょっと昨日の続きです。エッチな話で思い出したのですが、2013年ちょうど10年前の11月に私がクレマチスさんのお誘いでかちねっとのメンバーになって間もなく、いちまるさんとジョニーさんが猥談風の話をしていました。まあ特にイヤラシイというほどではなかったのですが、おやおや、という感じでした。するとすぐにろれちゃんが「このSNSはいろんな人が読むものだから、そういう話はここではしないよう、気を付けて下さい」とピシャリと言ったんですね。それが、真面目なお姉さんが悪戯ばかりしている弟たちを叱っているみたいで、とても面白いと思いました。さすが下町のSNSだと、入ったばかりのかちねっとに親しみを覚えた記憶があります。
さて、少しばかりエッチの続きです。Of Human Bondage、サマーセット・モームの長編で、確かに日本語では「人間の絆」と訳されていますね。それで私はあるときもう50年近く前ですが、スピーチの翻訳を頼まれてそこに絆とあることからbondageという言葉を使い、訳文を英国人男性に見せて「これでいいかしら」と訊くと噴き出した。そして言うには、bondageという言葉は近年ではもっぱらSMの世界で使われるんだよ、縛られて喜ぶアレ。
同義語辞典を引くとenslavement, chain, yoke等の言葉が並んでいます。絆はbondでいいんだよ、と言われましたが、厳密にはbondにも束縛という意味があるんですよね。そもそも絆というのは、頼りにも助けにも安心にもなる代わり、人間関係の縛りにもなる。一般に日本人にはそういう縛りは苦にならないけれど、「自由を愛する」と自分で言っている欧米人には抵抗があるのかもしれません。それで欧米ではこの言葉があまり使われず、代わりにSolidarityという語がデモなどでもやたら目につくようになりました。もっともこれも結束とか連帯責任という意味もあるので、人と人が近づくと接着剤ボンドの如くのっぴきならない状況が生まれるのは致し方ないことでしょう。それが厭なら、山里の村に一人庵を結んで暮らすとか。自由の近似値は孤独、寂しさ。なんて思うのも日本人的?
連帯という言葉を初めて聞いたのは、80年頃まだ鉄のカーテンが存在した時期に、ポーランドのグダニスク(ドイツ語名ダンツィヒ)の造船所の技師だったワレサが労働者組合を組織したときでした。えらく固い響きの「連帯」という語に馴染めず、別の訳語を考えてほしいと思ったものです。それが「絆」であれば日本人にも分かりやすかったのに。最近の日本人がよく使う「心に寄り添う」という表現、これもsolidarisch(ドイツ語)、en solidaritéなどという表現になるのでしょう。何だか木と鉄の違いに似ていませんか。