10月25日(水)
昨日の続きの場面はカットします、ご想像に任せて…というか僕が小説をまとめる段になったら(めでたくそーゆー状況がいつ来るのか見通しは、立っていませんけど、、まだ物語は始まったばかり)「まとまってゆく」。
(昨日の状況…星の王子様、、じゃなかった、突然出現した白馬の王子様を目の前にして上がりまくっていた順子も我に返り現実に戻ってみれば、やはり現実は甘くない)
祥太郎との結婚の条件として順子に回ってきたのは全く別の役回り、順子の昨日までの目標とは180度違う…亭主の世話と連れ子の世話。
順子の境遇からすれば生活に困っているわけではなし、独立して貿易業を立ち上げるのも特に困難はなく視野に入ってきている現在、さてどうするか。
周りの学校時代の友達はさっさと家庭の主婦に収まっている人たちがほとんど。
もともとお嬢様の花嫁修行を兼ねる学校との評判もあって、卒業を待たずに結婚相手を選べるほどの売り手市場、引く手あまたの状況でも順子は蚊帳の外。そんな連中に相談はしたくない。順子は人種が違うとさえ思っていた。
降ってわいたこの結婚話さてどうするか。
困った時の神頼み、順子が頼んだのは、いつも慣れ親しんでいる新約聖書ではなく…論語、義を見てせざるは勇なきなり、、ぶっちゃけた話、惚れた弱み、と言ってはみもふたもない。茶化すにもほどがある、、
ただ、ただ尽くして見たい気持ちは一気に固まった。一途な望みに裏も表もありはしない。その理由さえも不要だ。順子は身を捧げた。彼女は祥太郎を目の前にして今こそ紛うことなきクリスチャンになった。
(キリストに身も心も捧げるということだと彼女が認識していたわけではないが、身投げした自覚が心の底にあった事は間違いない。それがなければたった1分でそんな決心ができるわけないじゃないか。
湧き出してくる情熱の根拠を考えだしたら、頭が混乱してくる。それを追求するのもこの小説を書く目的ではあるのですが…書くほどに疑問は深まっていくばかり。
自分の中にそんな情熱があったとは知らなかった…などと言うのは小説を書いている方のセリフ。本人は情熱の根拠なんか詮索する余裕はない、燃えるような情熱…そういうものがあると言う事は僕も知っている)
あてがわれたこの仕事をやってみよう、この人と子供に尽くしてみよう、尽くしたい、祥太郎に連れ添い、その子を育ててみよう、順子はオーケーサインを出す前に目を閉じた、予想される様々なシーンが思い浮かんだが…それについても目を閉じた。
「…あまりに突然のことなので少し考える時間をくださいますか…」
立会人の社長まで緊張していたその場の一瞬の静寂を経て…祥太郎は順子に無理強いはできないと自覚しつつ、、この人だったら、娘の翔を任せられる人だという思いで、浅く、まるで傍で見ていたら軽く目礼するかのごとく順子に気持ちを伝えた
「まことに勝手な申し上げ方で失礼なのですが…どうかよろしくお願いいたします」
順子は即答したい気持ちをかろうじて抑えて、目礼を返した。
(華族制度が廃止される前に既に落ちぶれてはいたものの順子の家は実業にも手を出し比較的最後まで体面を保っていた家族であると言えるであろう。順子が当時としてはまだ珍しがられた学校に通えたのもその蓄えのせいである。
もっとも、最後には自称天才相場師の口車に乗せられて資産はどんどん目減りし、ついには家屋敷を手放すことになり、家からも追い出された…これも当時としてはよくある話、今でも話題にならないだけで同じような話はごまんとあるだろう、うまい話と情報は金なのでそんなうまい話や情報が一般の目に触れる事はないし秘匿される、これは今も昔も変わらない。
父親が騙され、結果として家族が振り回され、ただ呆然となすすべをなくしていた母を見ていた苦い経験は後の順子に職業婦人を目指ざさせるきっかけになったとは言えるかもしれない。
ところで順子の顔立ち、切れ長の目で一見ちょっと冷たい感じ?それが、世間の荒波でもまれて、ケンがこなれてちょうどいい塩梅。
それでもまだ簡単には男を寄せ付けない顔を保っている。それがかえって取り柄にもなっている。そんな顔がにこりと笑えばえもいわれぬ愛嬌にもなる、順子自身はそれを知っている、、って、感じかなぁ…それとも良妻賢母然とした、いいとこのお嬢さん風?あぁまぁよく考える、あまり複雑にいじくり回した性格にしない方がいいかもしれない、読んでくださる人のため。
シナ(品)が作れない女、なんだけど付き合い上愛想を振りまくことも心得ている、、というか努力してそうなった…それでいこう!イエスキリスト命
小説とは言え、ここまでご都合主義で行くとさすがに白けるだろうか、僕はそう思わない、現実はもっと上を行くケースも多いだろうと思う。所詮人間なんて出会いで決まりだ。自分自身を考えてみても僕なんかただ運がよかっただけ。これ正直な感想です)
今でも結構使われる「彼女は尽くすタイプ」という言葉には不快感がありますが、献身に情熱を燃やす女は(男よりも)かなり多くいると思います。自分自身が引率役になって何かするよりも、自分が好きな、あるいは尊敬できる、男(たいていは)のために、いわばその補佐役として懸命に働きたいという女性。これは一つには日本女性に「内助の功」とか「奥向きの働き」が求められていた時代の名残かも。いや今でもそれが大きく評価され、日本女性の間では習い性となっているのではないでしょうか。というのは、西洋社会にその種の女性はかなり少ないのです。いや東洋でも中国などは日本とはかなり異なるように思えます。
別の言い方をすると、欧米諸国では「男に都合のいい女として生きることはしない」という断固たる意志と闘いも辞さない姿勢が女にあるので、男はかなり緊張を強いられます。でもある意味、こういうタイプの女の方が、尽くす女よりも男を育てるのかもしれません。しんどそうですけどね。