10月18日(水)
国立のサナトリウムの病室
尾形は今病室から出ていった看護婦の後ろ姿を見送りながら手元にあった画帳に手を伸ばしさらさらっと何か描いた。
そこには先程の看護婦がいた。スケッチの中に彼女は確かにいるのだ。祥太郎はスケッチに向かって黙ってうなずいた。尾形は、「うまくかけたかな?」「…」
「彼女の肩から二の腕の線に、、そう、、悲しみを見て、思わずスケッチしてしまった…」
祥太郎は、思ったことを口に出した。
「尾形さん…知っての通り、僕は絵に関してはど素人です。でも顎のあたりが…」
「…」
「この人らしさ、かなー、、」
「…」
尾形は改めて自分の描いたスケッチを見つめながら…
「祥ちゃんに言われてみれば特に意識しないで何気なく描いた顎の線にこの人が出ている、、そうとは思わなかったよ、、そうかぁ、、悲しみが秘められた意思の強さで支えられている…」
尾形は祥太郎が、そこにいないかのように、自分が今描いたばかりのクロッキー/動きをとらえたスケッチを見つめていた。
祥太郎は、尾形の横顔を見ながら、もともと蒲柳の質で色の白いすっとした尾形の頬に一瞬赤みが差したような気がした。
ま、文章でスケッチしてみた気になりました…あはは🤣
明日は…戦後間もない新宿の雑踏の中で祥太郎と〇〇の出会いについて書く予定です、、結局…出会いが全て。
(明後日の午後、兄にサクマドロップと千円札10枚、手鏡などを届ける。兄が持ってきて、と言っている。千円札は多分テレビカードを買うため。兄が理解しようとしまいと…相続税対策と家族信託について話してこようと思う。Googleで調べたら家族信託アプリまであるらしい。お金は使うためにある、これはエチオピアの友人から聞いた話。)
蒲柳の質という言葉は専ら女性に使われると思っていたのですが、男性でもいいのですね。私の勘違いは「彼女は蒲柳の質でほっそりと柳腰」というような表現によく出くわしたせいでしょう。
お金との付き合い方はその人の人格や人生を反映しているように見えます。私としては、僅かな蓄えをうまく使ってそれが尽きる頃に命も尽きる、というのが理想的だと思っているのですが、何事も計画通りにはいかない世の中で自分の寿命を自分で操るわけにはいかない。
前に話した義姉も、最近介護施設に入った夫の元妻も、お金はあるのですが(あったのですが、と言うのが正しい)その使い方がなっていないので、義姉の後見人になっている女性と、元妻の子供たち(つまり私の継子)から、よく相談の電話がかかってきます。彼らのいうには、現在のような出費具合では、どちらもあと8年がやっとなんですって。
それで8年経ってもまだ生きていたらどうなるの、と夫に訊くと、義姉は血のつながる姉だから多少の面倒は見るが、別れた妻には慰謝料その他も十分払って家も買ってやっていて、もはや自分には責任がないから子供たちが費用を出すべきだと言っています。
私その話から、欧州にもあった「棄老」の慣習を思い出しました。日本では姨捨山が有名ですが、欧州では川に沈めて、つまり溺死させたのだそうです。若くて働ける人の力にも限界があり、へたすると一家が共倒れになるから、かつての貧しい社会では人道主義どころじゃなかった。