(昭和30年代頃の私の思い出)
テレビではちびっこギャングと言うアメリカのホームドラマも流行っていて、小学2年生のちびっこギャングたちは安保反対ごっこをよくしました。柄の長いほうきを2人で横に持ち…「安保反対、安保反対」とジグザグ行進すると警官役がほうきの柄を反対側から握り行進を阻止するといったものでした。
テレビでよくデモ行進と警官とのもみ合いを流していて、昭和30年40年代は国民も政治に関心が高くエネルギッシュだったと思います。ベトナム戦争は1955年から始まっていました。学校の帰り道ブランコに乗りながら…「今はベトナム戦争で鉄くず集めてる人がいるんだって。このブランコ明日はなくなっているかもしれないね」と教えてくれる子もいました。当時は子供でもベトナム、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)などと言っていましたが言葉のリズムが面白かったのでしょうか。
1964年(昭和39年)東京オリンピックが開催されました。10月10日の開催日は土曜だったことまで覚えています。よく晴れた爽やかな秋空にブルーインパルスが五輪の輪を描いた数日後、マラソンで円谷選手が三位入賞したその夜…父は35歳で死んだのです。
君原選手が円谷さんの想いを背負って駆け抜けていきましたよね、その後。 思い出を受け止めているのは誰?なんてね、みんな一人分を受け止めてますよね、何言ってんだか^_^
安保反対ごっこって、さすが都会の子は違いますね。ベトナム戦争はアイゼンハウアーからケネディを経てジョンソンへ。長い紛争でした。大学が三多摩でしたので、授業中に立川基地から発進する航空機の音が喧しくて、しばしば授業は中断されました。
お父上の35歳の生涯。そしてその円谷選手が「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と言って自死を選んだ時、彼はまだ20代でした。