(昭和30年代頃の私の思い出)
私の家は台東区の隅田川沿いにある材木屋でした。今もかろうじて残っています。浅草には昔から材木屋が多い。東京材木商協同組合も台東区柳橋ニ丁目にあります。
さてその頃の材木屋の父のいでたちと言えば地下足袋に肩あて、時により、半纏とハンチング帽。肩当てとは、厚手木綿に綿を入れて、さらに丈夫にするために刺し子にしてあります。肩を守るために担ぎ手にはなくてはならないものです。そんな肩当てがあっても重い木材を肩に担いでいるとコブが幾重にもできて、そのうち毛まで生えることもあるといいますから驚きです。今でこそフォークリフトを使って木材を運ぶものの、昔は人力です。肩当てを使いこなせて一人前。と言われていました。
ちなみに材木は長さがほとんど3メートルに製材されています。床柱もあればベニヤ板も扱っていますので重さは様々です。
地方から我が家に働きに来た若者たちのそんな辛い材木運びの毎日を見ていた近所のおばさんたちは…田舎のご両親が息子の姿を見たらなんと思うことか、と噂していたそうです。
実家は材木屋…と言うと最近は「技術家庭で使う木工の材料を売っているの?」と聞かれることもありびっくりしてしまいます。材木屋という江戸時代から続いてきた商売を知らない方もいるご時世なのだと思い少し寂しい気がしました。当節ではゼネコンがプレハブのように簡単に家を組み立て作ってしまいますが、一昔前までは大工が材木屋から木材を仕入れて、それをノコギリ、カンナ、ノミといった道具で、切断し、表面を削り、穴を穿ち(うがち)部材を整えて家を建てていました。
私は、正月の材木屋の「しつらい」ほど美しいものはないと子供時分から思っていました。しつらい、とは店の正面や林場(りんば)と呼ばれる材木置き場を化粧柱で整えて、しめ縄飾りをすることです。出来上がったしつらいは小学生だった私の目にもすがすがしく、誇らしく思えました。
(写真は正月の林場のしつらい)
割り込み失礼します、僕は僕らが中学校の英語の教科書で使った… ジャック&ベティからかなと、、、Jアンドーベティ?本当のところは分かりません😅
しつらい、は広辞苑をみると、「①設けととのえること、飾りつけること、設備、しつらえ、竹取物語「… ②(「室礼」「鋪設」は当て字)請客饗宴・移転・女御入内(にょうごじゅだい)その他、晴れの儀式の日に、寝殿の母屋および廂に調度類を整えること。」とあります。
この写真は広辞苑の説明よりも日本の伝統社会にいきづいていたこの行事とことばのひろがりを実感させてくれます。
チャコちゃんの文章も淡々と過去を振り返っているようで、伝統文化に対する誇りと愛情が満ち溢れています。
ところでこのペンネームの由来はなんでしょう? アンドー・ベティさん❓
黒板塀、総檜造り、、、もうそれだけで雰囲気が出てきますね。木場とくれば材木の角乗りのいなせなお兄さん、山まで木を見に行って品定めをする老舗の材木商など勝手に思い浮かべてしまいます。ちょっと高台から下町を見渡せば広々と広がる甍の波、、、そんな町が東京にもあったんだと思います。ヒノキはノコで引く時の香りと音が好き、仕上げカンナを入れるときしゅるしゅる生き物のように薄く削れていくその瞬間が好きと言う大工さんはたくさんいたと思います。控えめだけど、味わいのある瞬間も時間も遠のいた感じがいたしますね😌
私は何年住んでも東京の地理には疎くて、いわゆる下町のあたりは仕事で行くこともなかったのでその雰囲気もよく知らないのですが、小説を読んでいると「木場」というところが出てきたりしますね。材木商人は昔は成功すればお大名をうならせるほどの財産を築けたようですが、確かに時代は変わりました。でも私の郷里はその材木の生産地ですので、木材には愛着があります。今は建材としてもっぱら合成材料が使われ、郷里の林業もすっかり衰退してしまいましたが、いわゆるサプライチェーンの終点、消費者の手に届く寸前の材木商も、同じく昔日の面影はない。ブロック塀の代わりに黒板塀、マンション・億ションでなしに総檜建の家があったら、東京はどんなに美しい町になるでしょう。
荒川さんの昭和史に続いてベティさんの貴重なエピソードが始まりました。ベティさんの友人に…まるで明治時代の話みたい…と言われたそうです。それほど加速度的な世の中に僕らが住んでいるんだなぁと思いました。