3月14日(木)
すぐ近くに防災公園が出来上がった。区報にも丁寧に紹介されていた。
昨日、ほんのすぐ近くの空き地に工事の人らしき人が何人か入っていた。
そこそこの広さの空き地なので多分、大きなビルが立つだろう。
引っ越して1年位の間に周りの風景がどんどん変わっていく。
取り残されていく感じ。居直るほどの元気は無いけれど望んでこうなったのだから「しょうがない」。
名指しで僕の家は荒川が決壊すれば2階の床まで浸水は確実、との郵便物が届いている。僕の家の周りの古い家屋の皆さんにも同じものが届いているはず。
なるべく迷惑がかからないように沈没していこう…という心境です、、って、どんな心境?
(明日は兄の所へ行っていろいろ用事を済ませてきます。用事があるうちが華、、そんな心境です😅
用事を頼むより頼まれる方が気が楽。
手元にある本を読み進めていくと…知らないことの多さに相変わらず驚く。
知っていることより知らないことの方が多いこと…実はこれも安心材料になっていると最近気がついた。
土に還ると言うよりは、何も知らないままに、かつて祖先が生まれてきた海に還ると自分を騙すことにいたします…あはは🤣)
洪水等の自然災害の報道を読むたび思うのですが、雨が多すぎて毎年のように浸水・冠水で悩む自治体があるかと思えば、現在のスペイン(特にバルセロナ地方)のように旱魃で飲料水まで制限される事態になっている場所もある。
昔は普通の家でも降り過ぎた(?)雨を貯蓄しておく設備があったはずなんですけど(以前にフランス語を勉強しようと使った子供の本に、いきなり、沢山の動物を飼っている農家のciterneというのが出て来て、これが「貯水槽」のことだったので印象に残っています)、公共の水道に頼るようになって自衛を忘れてしまったみたい。
また日本では、以前は都会でさえも井戸のある家はめずらしくなかった。この井戸が今問題なんです。日本の我が家にもあり、安全を考えてそれには重いコンクリートの蓋をしてあるのですが、隣に住む叔母がいうには彼女のところの井戸を覗くと水は遥か下にあって、とてもじゃないが釣瓶などでくみ出すことはできない。水位がそこまで下がった理由は、水稲に代わって「儲け」のある温室栽培をする農家が増え、茄子・胡瓜・トマトなどのためにふんだんに水を使うからで、地下水がどんどん減っているんですって。農村も今は「近代化」の波を受けてのどかな地域などではなくなり、この水不足は早晩大きな問題になると私は独り案じています。
過剰な水をどこかに貯め、足りないときにはそれを使う、という調整システムがないんですね。AIとかナントカいうけど、水の過不足は電力などのエネルギー問題以前の死活問題なのに、そこに注目する人は少ない。どうしてかしら。「湯水のごとく」という表現のある日本で水不足への懸念が薄いのは分からなくもないけれど、欧州特に南の方は歴史的に旱魃に苦しんできたはずなのに、何も学んでないという気がします。