2月11日(日)
とにかく文字にする事は僕にとって1番の勉強です。LINEを通じて友人達と話を交わす時にも細かいニュアンスまでとられてしまうので、注意するようにしていますがそれでも強く言いすぎたり勘違いされたりすることがあります。
お前は年下の者にも丁寧な言葉を使って何か変だよと母に言われたことをまた思い出しました。
丁寧な物言いをしたからといって損したことがないんだよねと言ってごまかしました。今考えるとそれは横着者の僕がいちいち年齢差で言葉の上げ下げをするのがめんどくさくなっただけのことなのですが、いまは、身分や仕事の上下関係でスピーチレベルを変える事が現代向きではないような気がしてきました(すごい大事なことを軽く述べてすいません、反論必至)。
尊敬が言葉遣いに出る事は間違いないし、必要だと思いますがそれが慇懃無礼であったり、こちらの気持ちを率直に伝えるときのブレーキになっては本末転倒です。
生意気な奴だと思われるのがオチだとは思いますが言いたいことも我慢して右顧左眄しながら忖度おこたりなく世の中を渡っていく事は保身には役立つかもしれませんが、人間関係の発展にはブレーキになる。
(和もって貴しとなす、と人間への信頼があってこそのご発言の聖徳太子がなぜ多くの人がいっぺんにしゃべることをいっぺんに理解できたかと考えたとき、太子の頭の中にAIの翻訳機に相当する部分があったと考えてはどうでしょうか。誰の発言かを音声の特徴と使用周波数別に区別して翻訳する複数同時翻訳機を搭載していた聖徳太子、、そんなことできないと断言できるだろうか?)
わかりやすく相手に伝わる表現…今更?!なんてことを言わずに、どうせ暇なので…これからゆっくり勉強していこうと思います。
きっと日本語でも、わかりやすく誤解少なく相手に伝わる言葉をみんなで考えていけばもしかしたら英語に頼らなくてもAI搭載の翻訳機で世界中と交流できるような気がしてきました。
そこで僕は、AIが勘違いしにくいような言葉遣いを心がけようと思ったわけです。それがめぐりめぐって人間関係をスムーズにすると考えたのだと思います。
スマホの音声入力でスマホが間違った場合でも他の言い方で入力すればさくさく変換できるようなものです。
スマホで音声入力するようになって2年以上が経ちました。小説を書いてみようかなと思ったのも音声入力の安直さにひかれてのことです。
今日のコメントも音声入力の簡単さに影響されての発言だと思います。日本語をしゃべればそれが外国語に変換される仕組みはもちろん今は出来上がっているでしょうが…その精度があがれば、国際間の交流ももっと盛んになると思います、、つまりお互いの理解が深まる。
びすこさんが、おっしゃったまず日本語に通じること、を僕なりに解釈すれば…小学生から日本語がうまく使えるようにすること、相手をいいまかすのではなく納得させる言葉のやりとり。相手を傷つけるのではなくやる気にさせる言葉、子供同士それができないわけはない。
AIに取り巻かれる環境になった今だからこそ、これがこれからの優先課題になってきたと感じます。鉄は熱いうちに打て。
(こんなふうに、口からでまかせでも文字にしていけば、今後、発言の仕方に工夫すると思いますし、積極的に発言していこうと言う気になります)
(僕が働きだした精密機械メーカーの技術者の間では外国人との仕事の上での交渉の時あまり言葉に困ったことがないと言う話を度々耳にしました。同じ技術者同士考え方が似ていたと当時は理解していました。同じ発想で、理解し合えるところを早い段階で確認し合えば大きな違いを棚上げにすることでとりあえず日常生活には支障がないように仕組みをお互いに理解し、段階的に人間関係を作っていけば良いのだと思います)。
日本人がもっともっと江戸時代の人のように会話を楽しめるようになれば喧嘩だって言葉の言い合いで楽しめるような時代が戻ってきて、きっと日本語が発展する道も生かせる道もあると思います♪
日本語に頼って…母国語の言葉の力を信じてお互いに影響されあうべき、日本語の使い方の工夫で、自分が変われたら楽しい。
白状しますと僕が生きてるうちに世界中を結ぶウェブなどと言うシステムができるとは考えてもいませんでしたし、そもそもそんなシステムそのものが思い描けませんでした。
世界中の人といながらにしてコミニケーションができるこんな時代を迎えられるとは思ってもいませんでした、こんな時代を体験できた、それだけで幸せ感じます。
ところで…突然ですが…日本人が割と生活水準の低いレベル(といってもほんの50年前と比べれば信じられない位の高い生活水準ですけど)で満足できる民族、これは天災に恵まれた?おかげの得難い資質だと思います。
お金をいっぱい持ったときその使い途がわからないなんてすごい上品だと思う一方で、お金をたくさん持ったときのことを考えられなかった、お金なんか一生持てないと抑圧されていた、そう考えれば悲しい位な奴隷根性。
お金に振り回されるのではなく、そのお金を社会に回す事まで頭が回るためには、もう一巡りみんなで考えなくてはだめだなと思います。あと1歩かもしれないし、とても無理かもしれないけれどあと1歩と考える方が楽しい。僕はそちらをとって余生を送りたい。世の中そんな甘くない事は百も承知ですが、考えてみることだけは勝手です。
(税制を少しいじれば源資は生まれ、それを再配分に回すこともできるが、政治的思惑、富裕層、経営者層の反発などでままならないだけかもしれない)
高度成長時代、共産主義は既に日本で実現されていたと言う突飛な説まであった位です。会社が社員を丸抱えの家族主義もその一端だとおもいます。社長から社員に至るまでお金のガリガリ亡者にはならない。
お金はなくても言葉の平等、、「言葉の平等」、、かあ、、口走ってしまいましたがこれは言葉にするほど簡単なことではないですね。
武士は己を知る者のために死す、名誉を重んじる日本人復活せよ、、なんて僕が言っても何の迫力もないけど、言うだけはただ、、何を言ってもただなんですよね、発言して反論を受けて立つ覚悟さえ、あれば、、僕の場合は無視されるのを我慢すればいい。
(昨日プールで20分ほどノンストップで泳ぎ続けた後、いつも僕に水泳についてコメントを求める方に気がついたことをズバズバ言って差し上げました…目を白黒させていましたが、僕のほうは泳ぎたいだけ泳いで、言いたいことだけ言って帰ってきました。ポイントは泳ぎながら疲れを取る…極端な話浮かんでいれば良い、だから地上をてくてく休みながら歩くように、泳ぎ続けられる、と言うところだったのですがそれもちゃんと言葉にしてお伝えしたのでどう伝わったか次回会うのが楽しみです。
その人に合った泳ぎ方(筋肉のつき方も、重心の位置も、体の可動範囲もスタミナも人さまざまです)を自分で見いださない限りいつまでたっても模範を人に求める泳ぎ方になってしまうと思いました。
今度お会いしたとき、またコメントを求められたら、それをお伝えしようと思います、偉そう…あはは)
「年下の者にも丁寧な言葉を使」うのがヘンだとおっしゃったお母様の意見はよく分かります。敬語というのは目上・同輩・目下の区別があって使われるものですが、昨今は、実態はともかく表向きは「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」が標語みたいになっていて、年下にも目下にも丁寧な言葉を使っていればとりあえず「無事」なので、年輩の人たち(といってももう私たちよりも年上の人はかなり少なくなっていますが)にとっては違和感のあることも多いのでしょうね。
森鴎外の夫人は天然の我がまま意地悪で知られていましたが、あるとき八百屋の店先で丁稚小僧に「そのバナナをもらおうかね」と言い、彼が「はい、はい、これはとても甘くてお勧めです」と応じると、「おや、この店では下働きにもバナナをくれてやるのかい」と鴎外夫人が言ったと、このことは娘の森茉莉がどこかに書いていました。そういう時代でしたから、まあ夫人だけを責めてもね。