12月4日(水)
今日のコメントも微助っ人クラブにこのまま転記するつもりです。
ビスケットはラテン語で2度焼いたパンという意味だそうだ。サクサクと崩れやすいイメージ、最初から余談、、
微助っ人クラブから数人が抜けていった。忙しいくてそれどころではない、か、東京を離れたか、早くも会の雰囲気に合わないか…だろうと思う。
忙しい人を振り向かせる方法をはないものだろうか。
微助っ人クラブに接近したほうが忙しい人のためにもなる!
多分これしかない😤
なぜ忙しい人を求めるか…これは明らかです。
忙しい人はたくさんの案件を次々に処理していく…その数の多さが経験となり次の案件に対処しやすくなる。案件を積み重ねそれを処理した数が多いからこそベテランになれる。つまり実はご本人たちが気がついていないだけで彼ら彼女らは既にしてプロなのだ。
自分1人で毎日の暮らしを切り盛りしている人は皆プロと言ってしまって良いのではないか。この目まぐるしい現在生活をこなしているだけで僕にはすべての人がプロに見える
年齢には関係がない、若いベテランの方もそれこそたくさんいらっしゃるだろう。同居人がいようといまいとそれは全く同じだと思う。
このせわしない世の中を右往左往と身をかわしながら生活するなんて僕にとっては神業だ。腹立たしいのは、ご本人たちは神業だなんて思っていないことだ。
またまた愚痴です、、、
まだ始まってもいないのに、観客席からの退場は寂しい。去っていた人たちのことです。
舞台で演じる人とそれを見る人が一緒になってこそ舞台は回る。観客も演者と考えて初めて興行は成り立つ、、、、なんちゃって。
微助っ人クラブは第2幕。これから参加する方たちには動き出した小さな小さな一つ一つを具体例として確認していけるだろう、、と思う。そうならなければと思う。
実は、こういう小さな積み重ねこれこそが見落とされている点でこの点をないがしろにしたらいつまでたっても大切なところが見えてこない。
そろそろみんなそこに気がつき始めている。この小さな波に乗っていけばやがてそれがみんなの共通認識になる
やむなく去っていった方は、他人の相談になんか乗っている暇がないと思っていらっしゃると思う。そんな事はないのだ、そんな事はないんですよ僕らが少しお手伝いできるかもしれませんよと大きな声で叫んでも、寂しそうににっこり笑って静かに去っていくこの悲しさ、去っていく人たちに馬鹿野郎と言うのはお門違いだろう。
馬鹿野郎と言いたくても誰に向かって言っていいんだかわからない。
馬鹿野郎と叫んだその声の回収先がない、、それこそが問題なんだと思います。
(昨日は午後から四つ木御殿の電気工事の見積もりについて立ち会いを頼まれたので出かけた。ついでにリフォームに先立ち柱や梁の1部を取り除き次の作業にかかりやすいお手伝いをすることになった。こういう仕事はもちろん嫌いじゃないので二つ返事で了解。
早速今日から着手することにした。着手する場所は確認済み)
世代交代が始まっている。団塊の世代もがんばってはいるけれど次の世代にバトンはどんどん引き継いでゆかれるだろう。流れは止められない。
老化なんて怒涛のように押し寄せてくる。いつの時代だってきっとそうだったのだ。老化を楽しむしかないだろ。そのために僕らは修行してきた。どうやって?
年寄り修行を真面目にしてきたか、それとも準備の時間がなかったか、あるいはまた修行なんかしなくても別にどうという事はないと開き直るか?
年寄り修行のために江戸時代には隠居という制度?があったのだと思う。この辺詳しくないので省略(ついでに申し上げておくとこの辺もあの辺も詳しくはありません。そもそももう現役にかなうわけありません)
どんな状況でも僕らは乗り越えていくんだろうと思う。あとがつかえているんだからそうするしかないと言うと何か悲観的。悲観的だろうと楽観的だろうと時代は移っていく。
微助っ人クラブのようなゆるい組織が世代交代の節目には必要だ。加工されない一時情報がやり取りされるには風通しが一番。広く浅く細い糸のような集まりだから風は通り抜けやすい。その分たくさんの情報がそれぞれの微助っ人のセンサーを通り抜けて行く、、通り抜けていくその声に耳を傾けてゆくだけでいい。
YouTubeは一次情報と二次情報がこんがらかって登場する媒体だと思った。現場の生々し一次時情報もあれば、誰が見ても二次情報だと思える情報がないまぜになっている。それが悪いと言うのではない、、むしろいいのいいことの方が圧倒的に多い。こちらが取捨選択のリテラシーさえしっかり確立しておけば。
最近、すれ違う人が僕の目にはすべてウォーキングディクショナリーに見える。
面白くない。
ネットメディアを辞書として使う分には大いに結構。辞書に出ていることをそのまま転記して自分自身に次々に上書きしてその結果自分自身が最新の辞書になる。
そんな必要なんか全くないと僕は思います。
(僕は昔から人づてに噂を聞くのが大好きです。聞かせてくれるその方の編集が面白いなと思うからです。まぁゴシップの類です。もともと新聞はゴシップを集めたものからスタートしたと聞いたことがあります)
これは簡単に進歩とか退歩の問題ではなくて体質の化学変化の問題だと思う。
だからこそ僕の目には未来人が闊歩しているように見える。それが面白くない。そう感じるからこそ僕はきっと既にとっくのとうに過去の人なのだ…あはは🤣
アメリカではビスケットという言葉は滅多に聞かない、英国ではクッキーって聞いたことがない。
どちらも定義があるんでしょうねど、面倒くさいので覚えようとしたことがありません。どちらも「焼き菓子」で済ませたい。パリパリして日持ちがいいのは「干菓子」、しっとりしたお菓子は「生菓子」。ほーら、日本語の方がずっと普遍的じゃありませんか。
田舎のケーキ屋さんで「そのマドレーヌを下さい」というと、「これはフィナンシエです、アーモンド粉を使っていますから」と叱るような口調で訂正されました。あ、そう、これも「焼き菓子」と言えばよかったんだわ。でもあとで聞くと、今はアーモンドなどナッツ類のアレルギーも多いので、マドレーヌなら食べられるけれどフィナンシエはダメという人もいるんですって。かくのごとく、文明が進むと、とにかくややこしいことだらけ。