10月24日(木)
耳が遠いという事の効用について
先日粗大ゴミ受付センターに電話をした時僕が耳の遠いことを最初にお断りしておくとその後の通話が楽になる。
世の中には目や耳の不自由な人がたくさんいると言うことを知らせるために僕自身が役に立っていると思った。
(同じ連想で認知症への対処の仕方も我々の世代が大いに役立っていると思う😅)
団塊世代のこの世への置き土産、、弱者に優しい社会を目指すお手伝い…ちょっと大げさ。
どんだけ自分に都合の良いように合理化して考えているか…我ながら笑っちゃう。
(すぐ近くのか葛飾郵便局のすぐ脇の道路拡幅工事のボーリングが1ヵ月ほど前から始まった。大工事。何のためにやっているか昨日交通整理をしている係りの方にお伺いした。
地下10メートル位の範囲に道路陥没の原因になるものがないかどうかの調査だそうだ。
とにかく次々に直径1メートル位の穴をボコボコあけていく大工事。
ぼくはこの場所を毎回安易に通すぎることはない、、興味津々で覗いていく。
やっとちゃんと説明が受けられてまるで頭に風穴があけられたようにすっきりと納得できました😃)
前に話したように私も耳の問題を抱えるようになり、それで気づいたのですが、眼の場合は目薬やサプリを勧められ、必要とあれば手術という手もあるのに、耳の場合には治療法や治療薬がないのはなぜでしょう。せいぜい高い補聴器を勧められるくらいで。
鼓膜の問題なら、その鼓膜を取り換えるとか(白内障で目のレンズを人造にするみたいに)、三半規管を若返らすとか。70歳過ぎて手話を学ぶのも大変だから、何とか聴力の問題に対処する医療を考えるべきですよね。
手話といえば、国ごとに、いや言語ごとに手話が違うので、これ、どうして国際的に統一されないのかと思っていたら、文法が違い語順も異なるので、同じ手話にはならないんですって。
手話でなくて読唇術というのもあり、これサスペンスドラマなどに出て来ることがありますが、この方法だと相手が目の前にいなきゃ唇の動きを読めない。そして年取って来ると目も悪くなるから、唇の微妙な動きが分からない。
まあ、そこまで努力することもないですよね。高齢者の権利=努力しない権利