10月20日(日)
お金について考える。
人は幸せになるために生きている。生きてるだけで幸せな人もいる、お金がなくても?
お金があっても必ずしも幸せじゃない人もいる。たまにお金で買えない幸せもあるからだ。
お金を使うために体力も必要だからだ。楽しむための体力。
あまり裕福でない人は裕福な人よりも、しあわせを感じるセンサーが敏感だ。お金に苦労したからお金のありがたみも身に染みている。手持ちのお金でどれだけ幸せが買えるかを知っている。
お金の効果的な使い方を知っているか知らないか、この差も大きい。
お金にものを言わせることができるかできないかこの差はさらに大きい。
お金を適材適所にタイミングよく使える人と使えない人の差だ。
(金貸しやってた知り合いが…お金は必要な額よりも多めに、早めに渡せ、、とかいう不文律があるとかないとか聞かされた…ホントかいな?!)
上手に使えなければ猫に小判。お金は道具と同じ「物」だからだ。使いこなせなければ宝のもちぐされ。
1つだけ例をあげれば…宝くじ当選者。たまたま該当者を2人知っている。
ともに三千万獲得。1人は仕事を辞めて行方知れず。なぜそんなことを知ったかというと、その仕事の後釜の経理担当者として入社したのが僕だったからだ。
もう1人は僕の知り合いの知り合いで、当選金をご夫婦で2年位で使い果たして、その後、友人経由でぼくに仕事を頼んできた。その時僕は仕事を作る仕事、つまり営業マンでもあったから、「その人のための仕事」を作ってくださいという依頼。まぁ、人間、持ちつ持たれつ。
ある友人に言わせると三千万という当選金は人騒がせな額、ということだ。つまり中途半端。ちょっと高級車を買って贅沢に飲んだり食ったりしてればあっという間に雲散霧消してしまう額、、まぁそんなもんかもしれない。
これは本当に単なる感想に過ぎない。要するにお金の使い方を知らない、猫に小判の例で、その辺にいくらでもある話。
体が健康じゃないとお金を十分に生かせないこともある。これは悔しい、残念。できればお金は体が丈夫なうちに使いたい。
お金は使うためにあるのはみんな知っているのだけれど、同じ使うにしても使い方にその人の生き方がもろに出るような気がする。
その人が生きてきたようにお金も使うとでも言ったらよいのだろうか…
でもなぁ、、こんな感想しか言えない僕はもしかしたらお金の使い方を知らないのかもしれない…
自由に使える大金を持ったことがないのだからそれも仕方のないことだ、、言い訳😅
それを試すために、僕に大金を使わせてみろ!と言いたい気持ちもある…あはは🤣
昨日は四つ木御殿でそば打ちの会。見学者3人、お弟子さん1人。講師の方はほとんど手を出さない。お弟子さんはもちろん初心者ですが、熱心な方なので手際も段取りも良い。見ていて気持ちも良い。
出来立ての蕎麦をみんなでいただきましたが見学者の1人が、、まるでお店で食べてるみたいとおっしゃった、、たしかに!
蕎麦湯もいただいて満腹、雑談に花が咲いて、無事講習会終了。
プールでざっと泳いでほっとしたらもう夕方。あっという間に日が暮れた…こんな日もある。
猫の小判の譬えで思い出した。ほんの昨日のことです。亭主が10日余り前に白内障の手術を受け、その後の経過をチェックしてもらうため、片道2時間の距離を元社員に運転してもらって、5時起きで出かけました。なんでこんなに遠い所の病院で、と思ったのですが、その話はまた。
往復のドライブで見た周りの景色が美しくて清々しくて、それでまあ長旅も許す気になり、田舎の道路の少し向うに広がる枯れ木の群れがすっきりと気持ち良いのに見とれつつ、ふと、灰で枯れ木に花を咲かせた正直爺さんの話を思い出しました。枯れ木の花で大団円なんだけど、その前にワンコのお陰でお金持ちになるんですよね。
正直爺さんポチ借りて
裏の畑を掘ったらば
大判小判がざーくざーくざーくざく
私今、お金が欲しいの。それもかなりの大金。(小金には困っていません。)
それで枯れ木を見ながら、私にも大判小判の在処を教えてくれる犬がいたらなあ、などと考えてしまった。ひょっとして、日本の家でもう枯れかけている樹齢100年近い柿の木の根元を掘ったら黄金の小判が見つかるとか・・・貧すれば鈍する、ではなく、貧すれば幼稚になるらしい。