10月2日(水)
①先々のことを考慮に入れて今を考える。
②先々の事は行った先で考える。
人間はこの2つを瞬時に判断して脳のそれぞれの場所に収納する。
何かに書いてあるわけではない…僕が想像しているだけです。
朝、洗い物をして、しまう場所はそれぞれ決まっているので…僕の場合何とは何を一緒にしてしかるべきところに収めるという判断はしません。
一緒にするものを考えるのが面倒だからです。ほとんど何も考えないようにして他のことを考えながらそれぞれの場所にまるで機械が選別して元のところに返すような作業しているということに気が付きました。
コンピューターと同じだなと思いました。1回に1つのことしかしない、というか僕がコンピューターの真似をしている!
この辺ちょっと大雑把に通り過ぎてしまいましたが、ゆっくり考えてみたいと思います。とにかく鈍い頭でも、少しずつなら考えを進められる。
コンピューターが人間の脳を真似すると言うのは1つの仮定であって、本当にそうかどうかわからないと僕は考えています。
唯物論者を疑っている。人間の脳は違うシステムで動いているかもしれないという気持ちが払拭しきれないのです。
人間の脳の怖い位の可塑性も恐れています。洗脳には洗脳で対抗するしかないのか?
よく例としてだされる、地球が1つの生命体だとするなら、その中のさらに細分化された生命体は棲み分けをして全体としての解を求めやすくなるようにプログラムされているのではないかなんてことも考えてしまいます。
人間の脳もそのプログラムの中の一部だと考える。部分の正解は全体の正解とは相反することもある。その辺をどうつじつまつけるんだろうか?人間に都合の良いように合理化しすぎているのではないか?
人間がああだこうだ悩む、悩ましい、逃れられない問題に立ち向かわなければいけないのはこのことだろうと思います。
人間至上主義の行き着く先は、誰が引き受けるか。その辺の覚悟の仕方の違いで結果は違ってくる。
だからこそ僕らはお互いがお互いを監視しなければならない。まぁとんでもないことを考える人間も出てくるからです。それこそが人間を人間たらしめていると言えないこともない。
何の罪もない金(かね)にものを言わせる世界、金がものを言う世界を作ったのも人間なら、人間を人間らしく社会的な良識ある人間を育てるのも人間。
次に書く小説のメインテーマにしたいと思います。
(昨日幼なじみが訪問してきた。東洋医学を追求してきた人なので言われるままに体を揉みほぐしてもらってバランスを整えてもらった。軸足になっている左足と右手の凝りが取れた。
亡くなったもう1人の友人のことを思い出した。彼は京都で整体師修行に励み三鷹で診療室を開業した。その時に聞いた話…足が急に痛くなってやっとの思いで診療室にたどり着いた人に施術した結果見違えるように改善してさっさと歩いて帰ってしまったと言う話。簡単に治ってもらっては通ってもらえない、と、後から気づいた。
通ってもらえるお客になってもらわないと経営上、問題。
昨日の施術は…体のバランスを取ると言うことなのでそれよりはい1歩進めた考え方、、特に悪いところはなく生活する上で少しも困らなくてもバランスを取る、バランスを取り戻すという事ならある程度説得力はある。なるほどなぁと思いました。
彼は熱心なクリスチャンでもある。東洋医学とクリスチャンの融合。彼のバランスの取り方にも興味があり、月に一回通ってもらうことにした。
僕の家でミニコンサート、みんなで歌を歌うこともやりたいというので了解しました…どうなることやらです。ま、僕も手伝うことになるのかなと思います。
これも彼の中では神の思し召しということになるのだろうと思います。宗教家の合理化と言っては彼に失礼にあたるだろう。
僕にすればまぁフィールドワークの一環ということになりますので、それはそれで面白い。それぞれの考え方で良い。僕も、そこに融通を利かせられるご都合主義の東洋人でよかった…ハハハ)