9月26日(木)
実りの秋、、かあ。
しみじみいい言葉だなぁと思います。
老いてゆく我が身に滋養が染み込んでいく、自然のおすそ分け。
天高く馬肥ゆる秋、、時候の挨拶…手紙で1度はこの文句書いてみたかった。手紙を書かない人も書きたいと思った人はたくさんいるだろう、、そう思っても書かないのは書く機会がないから。
美術館に足を運ぶ機会がない。行きたいと思う外国に行く機会がない。たまにはちゃんとした音楽会に出かけたいけど機会がない。
機会がないことの言い訳はごまんとある。
人混みが、嫌いだからそれだけで出かけたくない。耳の聞こえが悪いから音楽会が楽しめない。外国旅行をして風景を見てなんになる、まして外国人を見たけりゃ日本に来る観光客はごまんといる、、東京そのものが僕にとって外国みたいなもの…わざわざ外国まで行って何を今更体験しようと言うのだろう?
そうやって何でも諦める機会はある。でも、そこのところを詰めて考える時間がない。
悪循環ですね。
世の中に足らないものはお金と機会。でもお金がなくても機会は作れる。
多分僕がいろいろなサークルの立ち上げに興味があるのはその辺だと思う。前にも言ったように…人のためにやっているのは言い訳で…実は自分のためにやっている…結果として何らかのお役に立っているとすれば一石二鳥…あはは。
(昨日ビバホームへディスクグラインダーへ取り付けるコンクリート切断用砥石を買うついでに畳1畳分のシナベニヤ(シナの木を使った表面がなめらかなベニア)をえっちらおっちら担いで帰った。
それを洗濯機横の壁に貼り付けてその上にアクリル画の小さな作品を飾るようにした。スポットライトを当てれば、作品が浮いたように目立つ。
晩酌はそれを見ながら楽しめました♪)

大きな額に入ったような絵も素敵だけれど、その右下に立っているのは何のぬいぐるみ?熊ちゃん?それとも狸公?
機会というより時間について考えます。年とると時間持ちになるのですね、だからあくせくする必要はない、何でもゆっくり時間をかけてやれる。これも一つの贅沢ではないでしょうか。
先日、高齢者の暮らし(正確にはお金の問題ということですが)について云々したネット記事に、プチ贅沢というのがあって、そのためにはどれくらいの資金をためておくべきかという助言なのですが、プチ贅沢の中身というのが、な~んだ、って言いたくなる程度のもの。ときどき少し高価な外食をする、とか、旅行も年に一、二度海外に出かけるとか。
日本にいる間、一番よく通ったのが駅の傍のお好み焼き店。焼きソバもラーメン・うどんも食べられます。これが結構おいしい。もう一つはそこから近いベーカリー・カフェで、ここではちょっと変わった茄子のソテーを載せたフランスパンやゴボウとチーズを挟んだ丸いパンなどがあり、そこで私はいつもカフェラテを飲みました。こんな食事やおやつで私には十分な贅沢です。
ステーキも食べましたよ、東京で。甥と別れたその元嫁と会って、私がホテル内の鉄板焼きレストランに誘い、二人分で数万円の料理を注文したのですが、若い彼女が7割くらい食べて私はその残り。専ら彼女の話を聞くためと、二人の子供を育てながら働き始めたのでその慰労をかねて。(ご馳走は私にはどうでもいいんです。)彼と彼女は憎み合って別れたわけではないけれど、やっぱりね、と思うところはありました。甥の未熟さが最大の原因だと思います。彼は次第に料理も覚えて、週末には子供を預かっているそうです。払われる養育費も十分だし、子供も可愛がるし、不満はない、って元妻が言っていました。
あ、そうそう、プチ贅沢のための旅行。海外旅行って、私、普段は海外にいるし、海外が特別素晴らしいわけでもない、ってよく分かっているから、そこに旅することが贅沢って感覚が分かりません。航空運賃にお金がかかるから贅沢なの?
そもそも昔から旅はあまり好きじゃなかった、仕事その他でいつもやむを得ず行ったり来たりしていただけ。
時間に追われず、嫌いな人とは顔を合わせず、それだけで、若いときに比べるとすごい贅沢をしていると感じています。