9月9日(月)
本の最初のたった100ページに身代金目当ての末の幼児殺害者が死刑を免れ終身刑を言い渡されるまでのいきさつがしっかりメモされている。
僕は工業高校の時の担任に言われた言葉を思い出す。
英文の技術書を読まなければならない時、とにかく(石にかじりついてでも) 100ページまで読め!
そうすればその本に書かれている術語(専門語)がほとんど出てくるはずだ(わかったか!後は何とか読みこなせるはずだ)。
同じ言葉を繰り返したいと思いました。日本に存在する死刑について考えたいとき、この本の最初の100ページが考えるよすがを与えてくれると思います↓
「そして死刑は廃止された」ロベール・バダンテール著/藤田真利子 訳 団藤重光 解説:作品社2002年4月第1冊印刷発行
この本を読んで、、僕は僕自身が殺人を行ってしまう局面に出くわさなかっただけのその幸運を喜ぶべき、なんてことを考えました。
なんでこんな言葉が浮かんだかというと人は人を殺してしまうことがある、それは僕だったかもしれないと思えたからだと思います。
噛み合うはずもない歯車が噛み合ってしまうことがある。
そんなことは、ありえないと思っているその人はある意味幸せかもしれない。
昨日、続いて次の本を最後の20ページほど残して一気に読んだ。
「死刑廃止論」団藤重光著:有斐閣1991年11月初版第1刷発行
源平盛衰記の記述の中に日本で死刑が行われなかった期間の言及があり、へーそうだったのかとびっくりしました。
135〜136ページ
要するに、上代の人々の思想ですから、現代人であるわれわれの考え及ばぬところがあるのはもちろんですが、全体として、日本人の温和な国民性が仏教と結び付いたという面があることだけは、言えるのではないでしょうか。いずれにしても、平安時代にニ六代三四六年間にわたって死刑が行われなかったという事実は、現代のわれわれにも大きな精神的遺産として残されたものでありまして、われわれは、死刑の存廃を議論するについても、とくと頭において、じっくりと考えてみなければならないのであります。
引用以上。
死刑を深く考えることもなしにこの年まで生きてきました。僕みたいな人間は結構多いのではないでしょうか。
それでも全く改悛して従容として
絞首刑にされる人の例を考えますと、まぁやり切れないものは残ります。犠牲者たちはもうこの世にいないわけですから彼らの意見は聴けません。さてその代弁は被害者家族たちが行うわけですがそこにもちょっと無理を感じている僕がいます。
被害者家族たちの中にも死刑を望まない人もいる。
絞首刑にしても電気椅子にしてもガスにしても絶命するまでに何分もかかる現実は残虐そのもの。
それでは漏れ伝わってくる頭部を狙って吹き飛ばし一秒もかけず瞬殺すると伝えられている全体主義国家の例なら、それで済むのかという問題でももちろんない。
なぜ死刑を存置するのか考える時間を持ったほうがいい、、そんな時間すら持てないほど僕らは忙しくしていてはいけない。
他のどの重刑とも決定的に違う、つまり人1人の人生を唐突に終わらせる死刑を行う権利が僕らにあるのかどうか一人一人が問われていると思いました。
僕自身について言えば、、深く考えるチャンスがなかったことを理由に、結果的に目を背けている事実からはもう逃げられない。
(お米がスーパーに売ってない。いつも行く二軒、どちらも払底、供給源が不足してるとか…でも2、 3日ですぐ復活、、ついでにしっかり値上げされていました。
その間、お粥を3回ぐらい作って食べていました。おいしかった。消化が良いのですぐにお腹がすく、それも気持ちが好い。
僕は、お米と日本酒とウイスキーと古漬けを供給してくれる漬物樽があれば1年中幸せだ。
なぜ幸せかと言うと、とりあえずそこのところが充足されれば後は補完的にというか栄養学的に、さらには趣味的に、嗜好を適当にまじえて摂取してゆけば良いので基本的な食生活の構えが決まった感じがするからです。
後期高齢者1年生は11月の誕生日で終わり、いよいよ2年生が始まる。もうフレッシュマンではない。
押しも押されもせぬ後期高齢者ではなくて、押されたら引く、ひいたら押す柔軟性を備えた高齢者を目指そう…ついでにもっと人にも頼っていこう、頼っていって、にげられたら追いかけて行く体力も温存しよう…
いざとなったら無理して自立しなくても良い、杖もあるしスピード出せる電動車椅子もある…あはは🤣)