9月8日(日)
まだまだ暑いけど秋だ。良い夏ごもりだった。懐かしい夏の過ごし方ができた。汗をいっぱいかいた。
この夏、缶ビールを20本位飲んだ(少ない!)、1度もアイスクリームを食べなかった。麦茶もほとんど飲まなかった。日本酒だけは少し燗をつけて1合ちょっと毎晩飲んだ、、食前食中酒。
家も古びたなりにあか抜けてきた気がする。まぁ気のせいだと思う。
おとなりのリフォームが終わった。
夏終わり新隣人も地球人
(新しく来るお隣さんがロボットでないことを祈るばかり)
夏の間、開けていた通気口を頃合をみてそのうち蓋をしよう。
袖取ったTシャツに着る秋のシャツ
タオルケット夏掛け布団衣替え
新しき秋気配立つ緑茶かな
葛飾文芸クラブのホームページに俳句便りを寄せて下さる春硯さんの新作拝見したいけど、、夏休みみたいです…残念
昨日のデッサン会は散々でした。僕が耳が悪くてきちんと対応できなくて、、そもそもデッサン会に参加希望の方ではなくて蕎麦打ちの会に参加したい方だったのです!
お名前も聞き違えで、似たような違うご苗字でした!
やっぱ僕はぽんこつだわ😅
それでも同席してくださったQさんがその方にいろいろガイドしてくださって、ものはついでと、僕が引き上げた後、今日、そば打ちの会だとばかり思って見えたその方にデッサンを教えて差し上げてくださったようです、、何たる機転❣️
それでもそば打ちの会につなぎをつけ、なんとかまとまりました、やれやれです。
リクエストしておいた重いテーマの本も届いたので図書館に寄って借りてきましたが…さすがにいろいろ疲れて本を開く気にはなれませんでした。
夕方、冷凍の餃子をフライパンで焼いてそれを食べながらウイスキーの水道水割り飲みました。あと、冷蔵庫にあった残り物で腹を満たしバタンキュー。
近ごろ読んだ本の一つは、今の流行作家のひとり東野圭吾の「ぼくが昔死んだ家」です。この作家には興味がないというより、余りに人気がある作家には近寄りたくなかったのですが、こちらで亡くなった女性の形見でもある「孝子文庫」の中にあったので、ついページを開くことになったのでした。あらすじを簡単に紹介しますと。
「高校時代の元カノに頼まれて彼女の幼少時代の記憶を取り戻すために謎の別荘に向かう主人公。違和感だらけの奇妙な「家」で過去に何が起きたのか。彼女の記憶はなぜ失われたのか。残された日記や手紙を手掛かりにこの家の住人・御厨家の悲劇の謎に迫る…というミステリー。」ということで
謎解きをすると、この元カノの兄にあたる祐一は、彼がお父さんと呼んでいた人の息子ではなく孫だった。その祖父は法律専門家で著名人、しかし息子の雅和は出来が悪くて何度司法試験を受けても不合格。ついに親も諦めて教師の職を彼のために見つけ、さらに遠縁の娘を妻としてあてがう。こうして生まれたのが祐一。しかしその教師職も長続きせず、博打に手を出して首になる。最初の妻が結婚2年で亡くなり、そのあと再婚した女性が愛想尽かしをして去る前に生んだのが語り手である「私」の元カノ。彼女は忌まわしい出来事のために5歳以前の記憶を失くしている。
という物語なのですが、その中で私が考えさせられたのは、祐一の祖父の息子雅和への期待の大きさと失望の深さです。弁護士か検事なることを強要し、何度も失敗する息子についに諦めて、「一合の桝に一升を入れることはできない」という手紙を先輩の法律家に送る。
これって、どこの家にもありそうな悲劇ですね。実際わが家でも父とその長男との関係は、父が息子にかける期待の大きさからギクシャクした部分があり。孫が生まれると大変な教育ジジイになって疎まれていました。祖父の御厨氏も、息子が無能と分かると次には孫を鍛えて跡継ぎにしようと考える。そのために、母親に死なれた孫を息子として自分の元で育てる。
これも結構見かける話で、息子はダメでも孫をきちんと教育すれば立派な跡継ぎになる、と考えてそれを実行する人達は周囲に珍しくありませんでした。いずれも明治末から大正の初めに生まれた男たちで、家の存続、家族の名誉ということが何よりも重要だったのです。
その事を思い出すと、私は祖父や父や親戚の男性たちに怒りを覚えることがよくありますが、考えてみれば彼らの生まれ育った時代には、どうにも除去しようがないくらいそういう価値観が全身に癌のように広がっていて、戦後世の中が大きく変わっても自分自身を変えることはできなかったのでした。
そうやって、知らず知らずのうちに子孫に犠牲者を出してきた家も少なくないと思われます。博打うちで酒飲みで怠惰な御厨正和は、自分の息子で祖父を尊敬していた12歳の祐一に疎まれ蔑まれついに殺されてしまいます。
時代の流れというか時勢というか、あるいは思想の流行と言ってもいいけれど、そういうものの影響は私などが想像するよりもずっと強く抗しがたい力をもっていて、60年代以降の学生運動や赤軍派などに関わった若者も、その激しい流れに押し流された一群なのだと改めて感じました。そのあげく溺れてしまった人もいれば、どこか遠い島に漂流した者も。
東野圭吾って私よりだいぶ若い人かと思っていたのですが、1958年生まれとあるからそんなに年の差はない。やはりこういう物語は時代の変遷を自身の目で見てきた人ならではの筋書きで、若い人には無理だと納得しました。