8月26日(月)
僕は知り合いができてもその人の名前も住所もあまり興味がないことを気がついた。
そもそもこの10年間でいろいろな方と知り合いましたが名前も住んでいるところもそういえばあまり興味はない。
隠しテーマはその人が持っている興味だけ(この人の興味は一体なんなんだろう)。
だから住んでいるところも名前にも興味がない!?
知り合える位だからどうせお近くに住んでいらっしゃるんだろうという位の気持ち。
顔見知りになることが最優先で後は必要があれば確認していけば良いと思っているようです(この言い方他人事みたい)。
知り合って聞かれるのは…「お住まいはどちら?)。
ちょっと親しくなると「歳はいくつ?」。
当然、両方とも僕は興味がない。聞かれれば、、よくぞ聞いてくださったという顔をして答える。
日ごろの努力の賜物で最近では人には聞かせられないわだかまっているものを聞かせてくださる方が少しずつ増えてきました。
世間に対する不満が多いです。でもその世間は狭いのでそこでその不満を漏らすわけにはいかない。「無関係」な僕にはちょっとだけ漏らしてガス抜きをする。
想像するにそのフラストレーションは相当なもの。それを我慢しているその我慢強さを褒めていいのか呆れていいのか、僕にはわからない。
毎度申し上げているように「お手軽世間」作りは、僕のライフワークの1つです。
これこそ「大きなお世話」の世界だろうと思う。
大きなお世話は小さな迷惑かもしれませんが実際にやってみればわかりますがどれだけ世間が広がるか、それを実感してもらいたいのです。
年寄りがちょっとだけ世間を広げた時…やっと意欲が出てくるのではないかと期待して。
のっぺりした顔にいくらかでも表情が出てくれば、僕はそれだけで楽しくなれる。
自分のことで精一杯…これは最近単なる言い訳でないことがわかってきた。
そんな事ははじめからわかっているとも言えるのですが、実際に活動してみてその辺の確認はある程度取れた気がします(引き続きこの作業は続きます)。
分かりきっているのですがそこを割り切ってしまっては薄くて長い細くて切れやすい関係すら構築できない、、難しいからやりがいがある。
と、ここまで無理して話を進めてきましたが…閉じこもって生活している僕は…普通に暮らしているご近所の人たちよりも割と広い範囲で(薄くて細くてその分世代を超えて、広い範囲という意味)お付き合いができているような気がしています。
そのようなフィールドワークをしているので当然の結果。
高齢者には用がない。そうは言わせないために「用」を無理して作っている面もある。
それもこれも、よくよく考えてみれば自分自身の居心地を好くするためにやっている。
不満はたくさんあるけれど(実は閉塞状況と言える位の不満、、高齢者はただ流されている、浮遊しているその感覚が気に入らない)そのバランスを取るために自己満足を求めて活動しているのだと気がつく。そのために時々白ける。大いに白ける。
それでも、ぼーっとしているよりは精神衛生上ずっといい、、これも体力のうち。楽しくなるためにはそこそこ体力がいる。
(そろそろ高原状態、つまり興奮状態の躁から鬱に生活のバイオリズム?は移行しつつある…布石だけしておいて良かったなとつくづく思う…あはは😅
昨日午後から小冊子の自費出版のお集まりが自由の庭で、開催されていたので、ちょっと顔出してきました、、少人数のお集まりでしたが他県や外国の方もいらしたりして、、よくやるなぁと良い刺激になりました)
昨日読んだ本(実は二度目)に「他人指向」という言葉が出て来て、これどういうことなんだろうと調べてみました。
「 他人指向型の社会的性格においては行動の規範よりも、対面する人々に限らずマスメディアを通じて知る人々を含めた他人の動向に注意を払ってそれに参加する。彼らは恥や罪という道徳的な観念ではなく不安によって動機付けられる。このような他人指向型の社会的性格が成立した背景についてリースマンは産業社会の特徴と見なし、家族との関係、同輩集団との関係、マスメディアとの関係から要因について考察している。
さらに他人指向型の社会的性格がもたらす消費行動の傾向にも自らの純粋な効用のためではなく、他人志向のための消費傾向が見られるようになっていることを指摘する。また政治指導者において他人指向型の社会的性格を反映していると、政治もマスメディアを通じて他人指向型の消費行動を示す場となっていく。」
とありました。リースマンというのは1950年に著したThe Lonely Crowdで知られ、この書は日本では「孤独な群衆」と訳されたようですが、山崎正和は「寂しがりやの群衆」とした方が正しいとしています。そして、20世紀後半の人間はそれでも周りに他人がいることを確信できたけれど、今はそれも心もとなくて、絶えず「繋がり」を求めそれを確認しようとする「騒がしい群衆」になったと言っています。
David Riesman(1909-2002)の本、今日注文しました。390頁くらい。
(ついでなんですが、○○manという名前の英米人はたいていユダヤ系で、この人もやっぱりそうでした。)