8月17日(土)
2年ほど前に公園で見かけた外国の方を、、この本を読みながら思い出した。
読んでいた本は、、
岩波文庫:イスラム文化(その根柢にあるもの):井筒俊彦著1991年6月第1刷発行
冒頭の外国の方、、葛飾シンフォニーヒルズの近くの公園トイレの横でいきなりコンクリートの地面にぬかずき、ムスリムの礼拝を始めたのだ、、やや北よりの西に向いて、何の躊躇なく多分いつものように…。
公園にはベンチに座っている僕しかいない。日々繰り返されるであろうあまりに唐突、あまりに自然な彼の儀式に遭遇した僕は固まってしまった。
なぜ固まったか、、ああ、「彼はいつも神といる」、、と実感したからだと思います。困った時だけ神頼みする僕とは全く違う人間。
本を読みながら、途中から僕が出会った敬虔なその人を「読んでいる」ような気になってきました。
ムスリムの人はコーラン(クルーアン)を生きているんだなぁということが…大変わかりやすく書かれていました。
細かい文字の文庫本を読み進め半分ぐらいのところでギブアップ、、というか夕飯の時間になってしまいましたので残りは今日読みます♪
同じ著者の岩波文庫、「コーラン」上・中・下巻が手元にあるので引き続き読みます。
(昨日は1日断続的な台風の余波である大雨が降り続く日でした。今日は晴れそうです)
何を隠そう、私は1990年代半ばから井筒俊彦氏のファンでありまして、きっかけは日経新聞のインタビューを読んだことでした。圧倒されました。
さっそく何冊か買いましたが、この人はイラン王立研究所の教授だったこともあるので、アラビア語はもちろんペルシア語も堪能。私はアラブ諸国に旅したことがあるのと、イランには通算6,7回行っていてスンニー派とシーア派の差を庶民レベルで感じており、そういう研究をしている日本人のことを聞いたことが無くて残念に思っていました。井筒氏のことを知って、日本にもこんなすごいイスラム学者がいるのかと驚嘆したのですが、まず第一に語学の天才だったらしいですね。(「ホモ・ルーデンス」や「中世の秋」で有名なオランダのホイジンガなども、サンスクリットを習得していましたっけ。)
ただ、この人の『意識と本質―精神的東洋を索めて』、これは恐ろしく難しくて、30年近く前に買ったもののまだ読破していません。ドイツ語訳があるというのにもびっくり。
この碩学が亡くなった時のことをよく覚えています。1993年1月7日没とありますが、私は雪の舞う土曜日の朝、癌末期で余命数か月で入院中の父(不治であることも死期の迫っていることも知らなかった)に頼まれて神保町の古書店に20巻の本を注文しに行きました。20巻どころか1巻でも読み通す時間は残されていなかったのに。
そこまでの途中、駅で買った新聞を読むと、井筒氏の訃報が出ていました。私が神保町に出かけたのは1月9日で、前日8日に7日の死亡が判明し、9日の新聞に掲載されたのですね。父の末期がん、小雪の舞う寒い1月の朝、そして井筒氏の訃報。深く記憶に刻まれています。20巻は2月末に高知の自宅に届けられましたが、それから一か月ちょっとして父は逝ってしまいました。
(一時的な問題で送信不可と出ましたが、届いていますよね。)