8月10日(土)
読んでいた小説の中に、、地球上における自分の居場所が分かってしまうと、それだけで世界が縮小される…という意味に取れる箇所が出てきました。場所がわかってしまうと地球が小さく感じられる…地球儀をイメージしてしまうからかなぁと思いました。
飛行機で10時間ちょっとで地球の裏側に行ける世の中、世界が狭くなったと感じるのはある意味自然なのかもしれない。
地球上のどこでもそこに降り立った途端、前の場所との共通性を見つけて安心する。まるで世界中をくまなく旅したような口ぶりですが、僕は、そんなイメージを持っています。
きっと広いところに住んだことがない僕だからそんな固定観念が作られてしまったのだと思う。
僕の場合、天の川が遠くなってしまったことが、地球が狭く見える原因の1つ。
当然見えてしかるべき天の川が視界から消えてしまった途端に僕は本当に小さな地球に閉じ込められてしまった、、こんなはずじゃなかったのに、、って感じ。
18歳の夏?白馬山荘で夜中に目が覚めて外に出てみたらまさにミルキーウェイ、天の川!
初めて見た人は誰でもびっくり仰天するだろう。僕もたまげました。
身近にあんな天の川を見ていたら世界観も変わるだろう。
向こう側から見る地球が、本当の地球。50年後の人たちは旅行先に月見感覚で「地球見学」が楽しめるようになるだろう。
それができない僕は、、天の川を見た記憶に今までの年月を重ねて、気持ちだけ宇宙空間に身を投げ出す、、それだけで幸福になれる。
こんな地球に生まれて、愛する人に出会えて、今が幸せ、、世の中がこの先どんなに変わったって、美しいもの、確かなものに出会えた一瞬の記憶があれば生きて行ける。
狭い範囲を徘徊している僕はそうやって自分自身を安心させているのだと思います。
単純な人間で良かったなと思います。イメージの貧困さに救われているのかもしれない。
(昨日もいちまる文庫をチェックしていた。
面白い事は面白いのですが、、夕方にはどっと疲れた。本で語られている十数年前のことと、現在の感覚の違いをチェックしているだけで疲れるのだと思います。
十数年前の世の中の断面が地層を見るように本の中にありそれだけで頭の中が忙しい、、まぁちょっと大げさ。
(今日は四つ木御殿でそば打ちの会がある。食べに来てくださいと声掛けしてみたものの誰も来なければまたご近所に配る。
講師の方によると…昔はそば打ちなんて、もっと身近で、ちょっと心得のある人が気軽に楽しんでいたとおっしゃっていた。
そうなるといいなと思います。
新しく伝統を作る、伝統を復活させる…そう思うだけで楽しくなれます。
1年後の僕の仕事も昨日考えました…
①各種クラブの立ち上げ/人脈作り
②微助っ人ボランティア/よろず相談
③エコな暮らしの提案/ミニマルライフの実践
ある方に言わせると僕は…お節介のスペシャリスト、、なのだそうです、、気に入りました、、あはは🤣)
このところ天空が何かと賑わっているんですってね。星が増えているのか、飛び交う頻度が上がっているのか。スイスではよく雨が降りましたが(日本と違って欧州では朝から晩までというのは稀です)、夜になって上がると満点の星、そして結構流れ星を見ました。願い事を唱えるには見える時間が短か過ぎましたけど。
人類が大きく進歩して、科学技術でいろんなことが解明されて、月にも行けるし火星の状況も分かってきたし、星から石やら土やらを持ち帰ることも可能になった。恒星とか惑星とか、太陽系なんて子供でも知っている。
それでも人が亡くなると「空のお星さまになった」と言う。それを「嘘つき」と咎める人はいません。星の王子さまなんて絶対に存在しない、と主張する科学者もいない。これ、どういうわけなんでしょうね。