8月7日(水)
100年時代の人生戦略(ライフシフト)リンダ・グラットン/アンドリュー・スコット著:東洋経済新報社2016年11月第1刷発行
昨日はプールから帰ってきた後冷やし中華を作って食べ、コーヒーで一服した後、夕方まで、この本にかじりついていました。
通読して思ったことは、世界はまだ人生80年時代の用意しかしていない、、。今から20年位前まで僕も人生は80年、そう思っていました。周りもそう思っていたと思います。
20年後の今この本を読んで、やっと僕も人生100年時代に突入したことを再確認しました。
それなのに、社会制度も企業も人間もまだまだ100年時代に追いついていない。世界的な傾向だ。
働く側からのきちんとした要求に政府も企業も答えていくためにはそれ相当の時間がかかる。
つまり、、産業革命以降の幼児労働の禁止、週70時間以上の労働時間の短縮等もそれ相当の年月がかかったことを思えとこの本の著者たちは言っている。
(貧困層は富裕層に比べて寿命が短いなんていう面白くない統計もこの本で紹介されている)
その一方で、歴史の大きな流れで見れば働き世代もリタイヤ組も余暇時間が増えている事は間違いない。
それなのに時間に追いかけられているような錯覚に陥るわけは…何もしない空き時間が少ないせいだと著者たちは 喝破しています。同感です。
余暇時間は、旅にしろ観劇にしろスケジュール化されている。
肝心なことは何も予定が入っていない「空き時間」がきちんと確保されているかどうかで気持ちに余裕が持てるかどうかの差が出てくるとの見解…そう言われてみればそんな気がしてくる。
(それは僕も実験済みです。何かの集まりにお誘いしたところで大抵断られる。新しい人間関係を構築するのにとても神経質。人間関係で嫌な思いをたくさんした人ほどその傾向が強いかもしれない。趣味があるからといって心に余裕ができるわけではない。
僕の初代の相棒が言った言葉をまた思い出す…人生は体力だ。付き合うのも体力が必要。
それがわかっているので、とりあえずみんな体力を落とさないように頑張っている。
ジムのプールで一番頑張っている人たちは…インストラクターと一緒に水中でエクササイズをしているたくさんの女性たちです。
傍らのコースで泳いでいる僕たちは彼女たちの作り出す渦に押し流されそうです、それほどの勢い)
ところで…この本の中では触れられていませんが…人口密度が高まると人間関係が薄まる傾向は如実に出ているような気がします。
人口密度が低くなれば人間関係が親密になるならば…同じ効果を出すために…細く長く浅く広く付き合う環境を作り出せば人間関係を親密にできるチャンスも広がるというわけかな…あ、それで僕はいろいろなクラブを作っているわけだ、、とまあ、自分自身で再確認。
クラブメンバーを誘って断られたところで僕の方は相手の「断り方」に興味があるのでそれはそれで気にはしていない。下手な鉄砲も数打ちゃ当たる。
もう一度言いますが…例えば新しいクラブにお誘いしたとすると…特に仕事をしているわけでもないのにスケジュールが詰まっている方が多い。
新しい趣味を始める時間がない、ことがわかります。
あながち断り文句というわけでもなく忙しく趣味に精を出している感じ。
時間つぶし、暇つぶしに時間がとられてしまって新しいことに挑戦するすきま時間すらない。ホントかいなと思う。
ホントのところは…付き合うのに誰か面白い人いないかなぁとか、自分のビジネスに結びつく人がいないかなーとかの興味で近づいてくる人もいる事は確かです。別にそれでも構わないのですが…プライバシーには立ち入らない、という常識的な最低限のメンバーシップはあります。
これをはずしてしまうと話が発展しないし新しい人間関係もできない、、長いかっこ書き、以上終わり)
収入別、教育程度別、世代別、男女別、職種別の階層の中での付き合いが居心地も良いし効率も良い現実がある。
これからの働き方暮らし方の社会変動は、例えば職種に限ってみればその職種に対応できる限り年齢は問わない。まぁそりゃそうだと思う。そこが突破できないと世代間の技術の継承もうまくいかない。
IT時代は年齢を問わない学習システムが整ってきている。努力して自分自身のステージを変えることもできる。ステージが変われば付き合う人間関係も変わる。
個人個人がどのようにして生きていきたいかでパートナーの選び方も変わるし職業も変わる。
企業が欲しい人材を求めるためにはその企業がその人材が働きやすい環境をどの程度提供できるかによって変わってくる。
ベビーブーマー世代が淘汰されてからも加速していく社会変革に対応しなければならない時代は続く。
一世代若い人に言われたことを思い出す。いちまるさん達の世代は(つまり第一次ベビーブーマー世代)その世代でがんばって生きていってください…僕らは僕らでがんばります、、。
僕らが後進世代の彼らに関われるのは同じ土俵で勝負できるか、生き方モデルを示せるかという結構厳しい現実がある。
どんぐりの背比べで数にものを言わせて気楽にやり過ごせる現実でもなさそうだ。
先代の林家正蔵の残したという言葉を思い出す…(落語を通して、高齢になっても)世間様からお金をいただくということは、誠に結構なことでございます…。
なんか打ち出の小槌を考え出そう、、あはは🤣
「収入別、教育程度別、世代別、男女別、職種別の階層の中での付き合いが居心地も良いし効率も良い現実がある。」
これはその通りだと思います。以前に作家の曽野綾子さんが「日本でも移民を受け入れた上で、居住区を分けた方がいい」と述べたことについて、アパルトヘイトとの非難がありましたが、実際、文化や生活様式が全く異なる人たちが同じ町内の同じブロックに住むということは難しい場合が多いのですよ。そしてそれが生む軋轢は甚大で、時に殺人にまで発展することも。
それを例えば受け入れる側の閉鎖性のようにいいますが、こちらの移民・難民はどうしても固まり合ってしまって、離れ離れになることを拒否し、みずから「ゲットー」の暮らしを望んでいます。欧州のどの国でもそれは同じです。
異文化との接触は若い人たちなら果敢に挑戦してみればいいですが、70歳過ぎて、遠くからやってきた人たちに適応せよと言われてもね。向うが適応の努力をしていれば手を貸したいとも思いますが、実際はそんなレベルでもない。
スイスがバルカン半島からの難民を受け入れ始めてもう30年以上経ちますが、この国は法律や治安がしっかりしているので、暴力事件や犯罪は比較的少ないものの、穏やかな生活ができているのは、敢えて交わることをせず「平行の暮らし」を保っているためもあります。
福祉などはもちろん差別せず、法の前の平等を貫けば、しばらくはそれで良しとして融合には時間をかけるべきだと思います。